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ライ・クーダー(Ry Cooder) ブログトップ
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Ry Cooder(1st) [ライ・クーダー(Ry Cooder)]


Ry Cooder/Ry Cooder
(邦題『ライ・クーダー登場』)
(1970)
★★☆☆☆

オリジナリティーあふれるスタイルとテクニックで名セッション・ギタリストとして名を馳せていたライ・クーダーの、記念すべきソロ・デビュー・アルバム。自作曲は1曲のみ(それもインスト!)で、他はレッドベリー、アルフレッド・リードといったアメリカの古いフォーク・ミュージックのカバーばかりだが、それは後の作品でも似たようなもの。ライ・クーダーの凄さは作曲能力ではなく、選曲と、その楽曲の解釈やアレンジ、そしてプレイのスタイルそのものにあり、そういう意味ではこのファーストからライ・クーダー・ミュージックは完成されていた。のちの作品で聴くことのできるさまざまな要素がここにはすでに散りばめられている。そのことには素直に驚くべきだが、ただ作品自体のデキという点では、いろいろとアラが見えないこともない。

アラその1は、よく言われることだが、ヴァン・ダイク・パークスのオーバー・プロデュースである。ストリングスが入るようなバーバンク風のアレンジが鼻につき、ライの素朴なヘタウマ・ボーカルや、スライド・ギターの土臭い味や勢いとケンカしているのだ。「One Meet Ball」なんて、ヴァン・ダイクそのものである。いや、ヴァン・ダイク自体は嫌いじゃないし、『Discover America』なんて愛聴盤だったりもするのだが、ここではなにかしっくりきていない。この方向を詰めていったら何か生まれるのかもしれないが、このファーストと同じようなコンセプトで、プロデュースがレニー・ワロンカーとジム・ディッキンソンに変わった次の『Into The Purple Valley』が素晴らしいデキなので、どうしてもそう思わざるをえないのだと思う。

そのライのヘタウマ・ボーカルが、まだ「ヘタ」の領域にとどまっているのも、減点材料かもしれない。テクニック的に聴きづらいわけではないのでヘタというとちょっと語弊があるのだが、のちのライに比べるとまだ表現力に乏しいという感じなのだ。まあ、そのぎこちなさがデビュー作っぽいといえばいえるのだが。

ギターのサウンドもまた、のちのライが獲得する太く伸びやかな独特の音質とは違い、チープなロック的ディストーション・サウンドにとどまっている。とはいえ、プレイ・スタイル自体は早くもこの時点でライ・クーダー以外にはありえない唯一無二のものが完成されているのだから、重ね重ね驚く他はない。

なんだか悪いところを数え上げるだけのレビューになってしまったが、このアルバムでしか聴けないライ・クーダーというのもある。ズバリ、「ロックな」ライ・クーダーである。もう少し細かく言うと、60年代ロックの猥雑なパワーにまみれたライ・クーダーということになろうか。先に述べたバーバンク風アレンジも、そう考えればサイケな味を加える香辛料と考えられないこともないし、なによりここでライ自身が発散している若さと勢いは、まぎれもなく「ロック」を感じさせる。ヘンな例えかもしれないが、『Let It Bleed』や『Sticky Fingers』のころのローリング・ストーンズのような匂いが、この作品にはある。

って、実際にそのストーンズの両作品にはライ・クーダーはセッション・マンとして参加していたりするんだけどね。おまけに前者は1969年で後者は1971年、まさにこの時期(ただしライがセッションに参加したのはただ一度で、それも1968年だったとか。「Love In Vain」のアレンジや「Honky Tonk Wemen」のリフをライが考え、それをストーンズがしれっとパクったというかの有名な伝説のセッションである)だったりして、そりゃ「匂い」もするわな、という感じではあるんだけど。

それはともかく、このアルバムでしか聴けない「ロックな」ライ・クーダー、その個人的ベスト・トラックは「Do Re Mi」である。ウディー・ガスリーの名曲を、ライが高いテンションで、強い意志を感じさせるロック・ナンバーとして生まれ変わらせているのだが、いやカッコイイっすよ。気分が高揚する。ドタバタした垢抜けないリズム隊も「60年代ロック」してていい味出してる。こういう「青い」ライ・クーダー、ある意味貴重だと思う。

Into The Purple Valley(2nd) [ライ・クーダー(Ry Cooder)]


Into The Purple Valley/Ry Cooder
(邦題『紫の峡谷』)
(1972)
★★★★

じつのところ、僕はこのセカンド・アルバムをライの作品の中でも一、二を争うほど愛聴していて、個人的には最高傑作候補だったりもする。これか『Chicken Skin Music』かな、という感じだ。いや、最高傑作という言葉はやっぱりちょっと違うかな? たんに僕はこのセカンドが一番好きだ、という言い方をするべきなのかもしれない。

ボトルネック奏法を中心に、ギターやマンドリンを自由自在に操るプレイヤーとしてのスタイルとは違い、アルバム制作者という点から見たライ・クーダーは、おそろしくコンセプチュアルな作品作りをするミュージシャンだ。出来上がったサウンドがあまりにも見事(なにしろ自身があまりにも見事なプレイヤーなのだから当然なのだが)なせいでそうは思わせないのだが、じつはかなり頭でっかちな作品づくりをしている。一作ごとに実現しようとしている音楽は微妙に、しかし明確に異なっており、前の作品との単純な比較はできない。そのあたりが、ライ・クーダーをたんなるフォーク/カントリー畑の名ギタリストではなく、時代が無視することのできないロック・ミュージシャンたらしめている大きな理由の一つなのだと思う。

このセカンド・アルバムは、初期三部作のうちの一作、というとらえ方がよくされている。フォーク/カントリー的なアプローチで作られた三作ということで、それ自体はそう的はずれな見方ではない。がしかし、それはゴスペル的な要素を武器として手に入れ、ボーカルやコーラスとリズムが強化されたのちのスタイルとの相対的な比較という、わりと消極的な意味においての分類でしかないとも思う。比較的アコースティックな初期の三作、という程度の意味だ。

その「アコースティック度」という観点から初期の三作を眺めてみると、もっとも「アコースティック的」なのがこの次の『Boomer's Story』だろう。それはたんにサウンドが、楽器が、という意味にとどまらない。スピリットが、実現しようとしている音楽が「アコースティック的」なのだ。逆にファースト・アルバムは最も「非アコースティック的」なのだが、無理をしてそうなろうと努めているようなところがある。あたかも「非アコースティック的」であることが「ロック的」であると思いこんでいるような、ちょっと肩に力の入った感じだ。

ではこのセカンド・アルバムはどうなのだろうか? じつのところ、このアルバム、表面的なサウンドは驚くほど「アコースティック的」だ。アレンジの中心はライの弾くアコースティック・ギターやマンドリンで、エレクトリック・ギターを弾く際も、きわめてナチュラルでマイルドな音作りがなされている。ドラムやベースもドタバタうるさかったファーストとは雲泥の差で、ツボをおさえた必要最小限の仕事をこころがけているかのようなプレイが繰り広げられている。ところが、これはもう不思議というか音楽のマジックとしか呼べないのだが、サウンドはそんなふうに「アコースティック的」なのにもかかわらず、出てきた音楽はとても「ロック的」なのだ。そこが次のサード・アルバムとの違いで、そして僕がこのセカンド・アルバムが好きな最大の理由だ。

ボブ・ディランが「フォーク」を素材とした化学反応で「ロック」を生み出したのは、この7年前、1965年の『Highway61 Revisited』でのことだった。そのディランはファースト・アルバムではトラッドやウディー・ガスリーもどきの曲を歌っていたが、セカンド・アルバムからは一転して自分で曲を作るようになり、以降は作曲者として、シンガーとして「アコースティック的」なサウンドでの「ロック的」な音楽を作り上げる旅に出る。対して、このセカンド・アルバムでも自作曲は一曲もなく、ファーストと同様、ウディー・ガスリーやアッティラ・ザ・フンなどのナンバーを独自のセンスでカバーしているライ・クーダーは、アレンジャーとして、ギタリストとして、つまりディランとは違ったやり方で、ディランとは違った「フォーク・ロック」にたどり着いたのではないだろうか。いささか大げさかもしれないが、でもそんなふうにすら思う。それくらい、ここで実現されたサウンドには、真の才能だけが生み出せるような、安易なカテゴライズを拒む本物の「ロック」が感じられるのだ。

先に述べたドラムに関してだが、この作品ではのちにライにとって盟友とも呼べる存在になっていくジム・ケルトナーが参加していて、ファーストのようなドタバタしたサウンドにならずにすんでいるのは彼の力も大きいのではと思わせてくれる。その、控え目ながらライのギターを最大限に生かすドラミングはじつに見事だ。じつは僕も個人的に大好きなドラマーなんだけど。またライのボーカルも、ファーストから比べると格段の進歩を見せている。

それにしても、ライのギターはすばらしい。テクニックや表現力はもちろんだが、アレンジの中心となるような印象的なフレーズを次々と、アドリブ一発で生み出していくようなこの創造性は、たとえばジミ・ヘンドリックスあたりにも通じるものがあるような気がするのだが、どうだろうか? そういえば、このアルバムはとくに、アレンジにおけるライのギターの役割が大きいような気がする。使われる楽器が決して多くない(例えばこのアルバムにおける鍵盤楽器は本当に脇役程度の存在でしかない)ぶん、スケールや広がりは限定されるが、そのぶんライの天才を堪能できるアルバム、もっと言えば、ギタリストがコピーしたくなる曲が多いアルバムと言えるのではないだろうか。ちなみに僕も昔ずいぶんコピーしたもんです。ギターとボーカルの一人かけあいがカッコイイ「Vigilane Man」にもチャレンジしたし、「F. D. R. In Trinidad」や、フラット・マンドリンを持っていたので「Billy The Kid」なんかもコピーしたなあ。そう、ライ・クーダーの凄さって、コピーしてみるといちばんよくわかるかもしれない。天才だよ、マジで。

収録曲の曲想がバラエティーに富んでいるというのも、僕がこのアルバムが好きな理由の一つだ。最初に述べたようにきわめてコンセプチュアルなサウンドの作り方をするライ・クーダーのアルバムは、ある意味ではそれぞれのアルバム内がかなり強力に同じトーンで染め上げられていて、バラエティーという点では物足りなくなりがちなのが特徴でもある。だが、このアルバムは例外的に、各楽曲がそれぞれ独立したエモーションをリスナーにもたらしてくれる。楽曲の粒ぞろい感という意味でも、オススメの一枚だ。

Boomer's Story(3rd) [ライ・クーダー(Ry Cooder)]


Boomer's Story/Ry Cooder
(邦題『流れ者の物語』)
(1972)
★★★☆☆

ファースト・アルバム以降、作品が進むごとに肩の力が抜け、確信からくる余裕のようなものすら感じられるようになってきたライ・クーダーのサウンドは、このサード・アルバムにきて、自身のキャリア中で最も素朴かつシンプルな音による表現へとたどり着いた。セカンド・アルバムよりもさらにアコースティック感は強まり、トラディショナル・ソングを、おかしなアレンジを施してその魅力を壊したりしないよう、情感豊かなスライド・ギターを中心とした素直なアレンジで甦らせていくその手つきは、見事の一言に尽きる。

いや、これはもしかしたら、ちょっと見事すぎるのかもしれない。これでは、生半可なリスナーは、ライ・クーダーを「アメリカン・フォーク・ミュージック」といういささか刺激に乏しく垢抜けない、ローカルなジャンルの檻の中にいる囚人だと思ってしまうではないか! これを「いい味出してるけど、けっこう退屈なアルバムだよね」なんて言うヤツが、出てこないとも限らない。僕はそれが心配でならないのだ。老婆じゃあるまいし、僕が心配してどーする、ってのはおいといて。

ライの他の作品も含め、きちんとこの作品に向き合い、そしてライがここで取り上げた素材としてのルーツ・ミュージックにも興味を持って手を出してみたりすれば、この作品が驚嘆すべきクオリティーと普遍性を持ったものであることはすぐにわかるはずだ。ロックの本質がルーツ・ミュージックへの批評性にあるのだとしたら、これ以上に見事な形で提出された上質なロックは、そうお目にかかれるものではない。だが、その素材のルーツ・ミュージックとほとんど同化せんばかりのあまりに見事な批評っぷりは、先に述べたような誤解を招いてしまうのではないか。僕はそれが心配でならないのだ。って、しつこいか。

もちろん、ここまで素朴でシンプルなサウンドによる表現が選ばれたのはアルバムのコンセプトゆえであり、ライがこういう素朴でシンプルなサウンドという、いわば幅の狭い武器で勝負するミュージシャンだからでは、決してない。ああ、なんでこんなに心配というか、言い訳ばかりしちゃうんだろう……ともかく、聴いてみてほしい。名曲「Dark End Of The Street」の、ビブラートで弦をこするかすかなノイズまで含めすべてが感動的な、至高のアコースティック・スライドを。そこから、同じキーで、似たようなテーマ・メロディーを持つ「Rally 'Round The Flag」が歌い出される瞬間の、何とも言えない切なさを。伝説のブルースマン、スリーピー・ジョン・エステスを訪ね、ギターを弾いて歌わせた「President Kennedy」(ライはマンドリンをプレイ)で体験できる、ロックという音楽ジャンルの最も大きな礎と言えるデルタ・ブルースがナマのかたちで現代に甦った奇跡の瞬間を。

デビュー以来、自らの愛する、そして信じている音楽を追究してきた天才ギタリスト、ライ・クーダーは、3作目にして、たしかにその核心部分にたどり着いてしまった。逆に言えば、これ以上近づけばいろいろな意味で危うい、ぎりぎりの地点に。こんな場所まで来ることができたミュージシャンが、果たして過去に何人いたというのだろうか?

たぶんこのデビューからの3枚だけでも、ライ・クーダーという名前はロックの歴史に確実に残ったに違いない。だがライが本当に凄いのは、この次作以降、さらなる高みを求めて、新たな旅路をスタートさせたところなのだ。もちろんその旅は、この2008年現在においてもなお、続いているのだが。

Paradise And Lunch(4th) [ライ・クーダー(Ry Cooder)]


Paradise And Lunch/Ry Cooder
(邦題『パラダイス・アンド・ランチ』)
(1974)
★★★★

先に言っておくと、僕はこの次に出た『Chicken Skin Music』に満点の★5つをつけることを、すでに決めた状態でこれを書いている。なんだかぐだぐだと思い切り悪く長文を書いているわりには、評価はずいぶんざっくり決めるんだな、と思われるかもしれないが、そんなことはない。これでも★の数を決める際にはさんざん悩んでいるのだ。ここで悩んだのは、★を5つにするか、それとも4つにとどめるかというところ。最終的に4つにしたのは、やっぱどっちが満点かって言えば『Chicken Skin Music』の方だよなあ、という、完全に相対評価による決定である。別に誰も、満点は軽々しく出すなとか連続させちゃダメとかは言ってないのだが。

ライ・クーダー4枚目のこのアルバムは、ライの最高傑作に推す人も多い、というか「名盤ガイド」的なリストではライ・クーダーからはたいていこれが選ばれているという、買って安心、聴いてさらに安心な、超のつく名盤である。作品自体の完成度の高さや音楽的な豊かさはもちろんだが、そうした評価がなされているいちばん大きな理由は、その後のライ・クーダー・サウンドの礎となるものが確立されたアルバムだからだろう。

個人的には、このアルバムの基本的なサウンド・コンセプトはセカンドの『Into The Purple Valley』の延長線上にあると思う(同じように、のちにライが手がける映画音楽などはサードの『Boomer's Story』の系統なのだと思っているのだが)。つまり、アコースティック楽器を中心とした音を、丁寧で創造的なアレンジによってロック的に聴かせ、さらに中南米ミュージックの明るさと叙情を加えたサウンドということなのだが、一方でこういう手法は、ストレートなダイナミックさやスケール感は出しにくいところもある。線が細くなりがちというか、白人的というか。思い切り極端な例で言えば、ブルースではなくカントリーというか。もしかしたらそれはライ自身の資質の問題で、だからライの音楽作りの歩みは「黒っぽさ」をいかに獲得していくかという戦いの歴史だとも言えるのだが、そのいちばん最初の勝利が、この『Paradise And Lunch』なのではないだろうか。要するに、乱暴に言ってしまえば『Into The Purple Valley』にボビー・キングらの黒人コーラスを入れてみたら、これが相性ぴったり、大成功! といった感じだ。

ちなみにその「黒っぽさ」云々は、聴き手である僕自身の資質の問題だったりもする。ソウルでもファンクでもブルースでもそうだが、嫌いとか受け付けないなんてことはまったくなくて、むしろ積極的に聴いているつもりなのだが、それでも最終的にそうした「真っ黒」なものを、どうしても自分が好きな「ロック」のルーツ的なものとしてしか聴けず、嗜好のメインに置くことができないのだ。でもまあ、それは本当に好みの問題なので、このへんで。

サウンド上の特徴やライ・クーダー史上の位置づけがどうこうというのを抜きにしても、このアルバムの音楽的なクオリティーの高さには、それだけで名盤認定したくなるものがある。特に、各楽曲に施されたアレンジの細やかさ、楽しさ、的確さは素晴らしいの一言。何度聴いても飽きないし、むしろ聴き込むほどに新しい発見がある。ちなみにさっきは、「Jesus On The Mainline」のホーン、「Mexican Divorce」のマリンバあたりに深い感銘を受けたところ。なんだかマニアックな聴き方を自慢しているような書き方だけど、本当にそんなことはなくて、そういう一音、一音がガンガン胸に染みてくる作品なのだ、本当に。あ、「本当に」がカブっちゃった。まあいいか。

ちなみにボビー・ウォマックの名曲「It's All Over Now」は先にローリング・ストーンズやフェイセズで聴いて知っていたが、ここでのレゲエっぽいバージョンを聴いて、一発で「こっちの方がいい!」と思ってしまった。夏の日の昼下がりに、缶ビールか何か飲みながら聴いていると、ハッピーなような切ないような、何とも言えない感情に襲われる。そんな名演です。

Chicken Skin Music(5th) [ライ・クーダー(Ry Cooder)]


Chicken Skin Music/Ry Cooder
(邦題『チキン・スキン・ミュージック』)
(1976)
★★★★★

思い切り単純な図式で語ってしまうと、デビュー作が「素の」ライ・クーダーなのだとしたら、セカンドでは「バッド・オールド・デイズ」のフォーク・ミュージックを探求し、サードではブルースの故郷である南部へと赴き、そして前作ではゴスペル的な黒っぽさを獲得するなど、1作ごとに着実に音楽的な武器を鍛え、自分のものとしてきたライ・クーダーが、その成長のとりあえずのピークを迎えた、デビュー以来の旅路の総決算的な作品こそ、この『Chicken Skin Music』なのだと言うことができるだろう。

具体的には、ここでは新たにフラーコ・ヒメネスというアコーディオン奏者の起用によるテックス・メックスの、そしてギャビー・パヒヌイとの出会いによるハワイアン・ミュージックのエッセンスが、それぞれ注入されている。いや、それらのサウンドを取り入れたとか、テイストを加えたとか、そんな言い方が軽薄なものに思えてしまうほど、このアルバムが実現している音楽性は、テクニックや手法を超えたスピリットのレベルで遙か高みに達している。ライ・クーダーという一人の天才ミュージシャンが自らの内に育んできた音楽が、余すところなく、これ以上ないほど幸福なかたちでアウトプットされている。だって考えてもみてほしい。アメリカン・フォークとブルースとゴスペルに加えて、テックス・メックスとハワイアンのサウンドまでが一枚に混在していて、それがまったく違和感なく、というか至上の組み合わせに思えるような最高の音楽が実現しているのだ。これが天才の仕事でなくて、いったい何だというのか。

ところで、いま「ライ・クーダーという一人の天才ミュージシャンが」という書き方をしたが、もちろんこれはライ・クーダーがいちギタリストである以前にいちミュージシャンであるという、しごく当たり前の考え方に基づいた表現だ。だが、もしかしたら「一人のミュージシャンとしての」ライ・クーダーにさほど関心はないが、「スライド・ギターを武器とする天才ギタリスト」であるライ・クーダーには大いに興味がある、というリスナーはいないとも限らず、だとするなら、そういう人にとってこのアルバムは、とてつもなく退屈な作品になってしまうかもしれない。それくらい、このアルバムにおけるライのギターは脇役に徹しきっているのだ。

いや、脇役とか主役とか、そういう考え方自体がライ・クーダーを「いちミュージシャン」ではなく「たんなるギタリスト」としてしかとらえようとしないリスナーの用意したフィールド上の議論のような気もするが、少なくともライのギターがこのアルバムで「いちばん目立つ音」でないことは確かだ。「さあ、ここから超絶テクニックのギター・ソロですよ!」というようなプレイも見あたらない。聴こえてくるのは、これまでどおりのギターやマンドリンだけでなく、バホ・セストやマンドーラといったメキシコの楽器の不思議な音色であり、譜面に起こしたらもはや誰のプレイなのかなんてわからなくなってしまいそうなバッキングなのに、一聴しただけでこれはもう絶対にライ・クーダーとしか思えないほど個性的なプレイであり、まるで効果音のようにここぞというところに入ってくるアコースティック・スライドの生々しいビブラートであり、とにかくライ・クーダーでなければ出せない素晴らしい音ばかりなのだ。

どの曲も素晴らしく、それぞれに少しずつ別の魅力、聴きどころを持っているため、曲単位での順位をつける気にはなれないのだが、じつはアルバムの流れで聴いていくと、僕はいつも同じところで鳥肌が立つ。A面(アナログ・レコードしか持ってないんです)最後の「He'll Have To Go」と、同じくB面の最後を飾るレッドベリーの名曲「Goodnight Irene」だ。どちらもフラーコが最大限にフィーチャーされたナンバーで、演奏が始まってアコーディオンが聴こえてきた瞬間の、なんとも言えないノスタルジックな開放感(ってヘンな表現だがわかってもらえるだろうか?)がもうたまらないのだ。この瞬間を味わいたくて次もまた頭から聴くことになるわけで、こういうとき、「アルバム」という作品形態とはよくできたものだとあらためて感心することになる。

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