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Show Time(6th) [ライ・クーダー(Ry Cooder)]


Show Time/Ry Cooder
(邦題『ショー・タイム』)
★★★☆☆
(1977)

じつは2008年現在、ライ・クーダーのライブ・アルバムというのは、この1枚こっきりしかない。他にも、たとえばジム・ケルトナー、ティム・ドラモンド、ボビー・キングといったメンバーと、バンドに近いステディなチームを組んでレコーディングしていた時期のサウンドや、あるいは何度かの来日公演で見せた、デビッド・リンドレーと2人きりで行うアコースティックでアットホームな演奏など、ぜひともライブ・アルバムで残しておいてほしかったものはたくさんあるのだが、でもまあないものはしかたない。ちなみに1995年のNHKホールのライブは幸運にも観に行っていたのだが、いやあ、ものすごくよかった。ステージに2人が出てきた瞬間、客席から「化け物!」と声援(?)が飛んで、会場が笑いに包まれ、デビッドもにこにこしながら手を上げてそれに応えていたのを昨日のことのように覚えている。あのライブ、ブートレッグとかでもいいから、また聴けないかなあ……。

閑話休題。この『Show Time』は、『Chicken Skin Music』が発表された1976年の12月にサンフランシスコで行われたライブの模様(2日間)を収めたアルバムだ。バック・バンドを「チキン・スキン・レビュー」と名付けていることからもわかるように、世界中で高い評価を受けた『Chicken Skin Music』のライブ版であり、これがライの唯一のライブ・アルバムとして作品化されていることを見ても、ライ自身、ここまで目指してきた音楽のとりあえずの完成形ともいえるこのサウンドに、かなりの自信を持っていたことが窺える。実際、収録されている曲数は全8曲と少ないが、その1曲、1曲にそれぞれ違った聴きどころがあり、まさにライ・クーダーのデビューからの総決算的な作品として聴くことができる。またそうなるように、よく考えて選曲されているとも言える。よくある、ひたすら代表曲のオン・パレード的なライブ・アルバム(アナログ2枚組とか)にしても誰も文句は言わないどころか、それはそれできっと楽しい作品になったのだろうが、そうせずにこうやって何らかのコンセプトを設定し、それに沿って作品を純化・凝縮させていくあたりは、いかにもライ・クーダーらしいとも言える。

じつのところ、このアルバムの良さがわかったのはわりと最近になってからだった。ライ・クーダーを聴き始めたばかりの頃は、とにかくオリジナル・アルバムの素晴らしさに夢中になるあまり、このライブ・アルバムの魅力には気づいていなかった。新曲(というかオリジナル・アルバム未収録曲)は2曲あるが、大半が過去の作品で聴ける曲だし、そのいかにもライブらしい、勢いとハッピーさとリラックス感にあふれた演奏も、緊密なアレンジが施されたスタジオ作品と比べて、緩さの方が気になったりしていたのだ。

しかし、あらためて聴いてみると、この楽しさ、ハッピーさは、スタジオ作品ではちょっと出せない種類のものであることに気がつく。というか、聴いてみればすぐにわかるが、ここまでライブ・アルバムらしいライブ・アルバムもないというくらい、全体の構成、流れが計算し尽くされているのだ。なにしろ「さあ、学校が終わった! 遊びに行こう!」という歌で気分を一気に盛り上げてくれる1曲目の「School Is Out」なんて、わざわざスタジオ録音されているくらいだ。続く「Almony」は、いかにもコンサートの開幕らしい、「さあ、ショー・タイムの用意はいい?」というアカペラ風コーラスのナンバー。そこからはライのスライドあり、ボビー・キングたちのコーラスあり、フラーコ・ヒメネスのアコーディオンはもちろんのこと、ボーカルまで飛び出すなど、夢のようなハッピーな時間が過ぎていく。名曲「The Dark End Of The Street」の歌入りバージョンは、ライのギターも含め、もしかしたら『Boomer's Story』のインスト・バージョンより上かもという名演。そしてライブは『Chicken Skin Music』を象徴するようなバンド・サウンドを聴かせる「Smack Dab In The Middle」で幕を閉じる。いや、お見事な構成だ。

ライの作品をデビューから、もしくは評価の高い作品から順にでもいいが、とにかくすべて聴こうとしている、あるいは聴いている最中のリスナーにとっては、このライブ・アルバムは重要度の低い作品になりがちかもしれない。悪くはないんだけど、積極的に評価するのはとりあえず後回しにしておこうかな、とでもいうか。しかし、きっとそのうちに気づくはずだ。これが、もしかしたらものすごくいいアルバムなのかもしれないということに。そして、ライの作品の中で1枚だけしか無人島に持っていけない(ってのもずいぶんステロタイプな設定ではあるが)としたら、この『Show Time』という選択肢は、ある意味では大正解なのかもしれない、ということに。

ちなみにこのアルバムのジャケット、アナログ時代ものは、バンドが場末の酒場で演奏していて、その酒場の壁にはウディー・ガスリーやギャビー・パヒヌイなどライが敬愛するミュージシャンたちの写真が飾られている、という粋なものだったのだが、長らく廃盤になっていたせいか、現在入手できる再発盤のジャケットは違うものになっている。こういうのって、とても残念だなあ……と思っていたら、なんだ、限定版の紙ジャケ・シリーズではオリジナルのジャケットが再現されているのね。ほんのちょっと高いけど。amazonで画像がちゃんと載っているページが見つからなかったので、興味のある人は他のショップのサイトとかで探してみて。

Jazz(7th) [ライ・クーダー(Ry Cooder)]


Jazz/Ry Cooder
(邦題『ジャズ』)
(1978)
★★★★

長いキャリアを持つアーティストには、決まって「実験作」とか「異色作」と呼ばれる作品がいくつか存在する。

……と書き出してみて、いきなり困ってしまった。書き出しに続いて、「例えば」と、いくつかの例を挙げていこうと思ったのだが、いざ書こうとすると、うまい例が思いつかないのだ。「うまい例」というのは、今回論じようと思っているライ・クーダーの『Jazz』へと着地できるような例、ということなのだが。ともかく、もういちど最初から書き直してみるとしよう。長くなりそうだな、しかし……。

一般的にロックの世界には「実験作」と呼ばれている作品がある。たとえばビートルズの『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』がそうであり、クラッシュの『Sandinista』もたぶんその一種で、新しいところではレディオヘッドの『Kid A』なんかもそういうことになるだろう。この手の作品は、例えばサイケデリック・ムーヴメントのような大きな枠組みの文化をロック・ミュージックという具体的なジャンルの表現として定着させようという試みであったり、アナログ何枚組といったいささか常軌を逸した大ボリュームの作品を発表し、その常軌の逸しかた自体を表現として組み込むようなメタレベルのメッセージめいた手法の実践であったり、あるいはテクノロジーの進化がロックに本質的な部分で影響を与えうることの証明であったりして、要するにロックの歴史における実験という意味において、まさしく「実験作」と呼ぶにふさわしい位置を占めている。

他方で、キャプテン・ビーフハート、キング・クリムゾン、あるいはヴェルヴェット・アンダーグラウンドといった存在もまた、「実験」というタームでロック・ミュージックを斬っていくうえで無視できないということは、ロック・ファンなら誰もが知っている歴史上の事実。当然、『Trout Mask Replica』や『In The Court Of The Crimson King』や『The Velvet Underground & Nico』を「実験作」と呼ぶことは広い意味で間違いではないのだろうが、ただこれらのアーティストは、その存在、そのスタイル自体が「実験的」なのだともいうことができる。その意味では発表されたすべてが「実験作」なのだ。これをアーティスト個々の作品史内の文脈で見てしまうと、「実験作」の基準は極端にハードルが上がるか、もしくはまったく別種の物差しを持ってきて判断せざるを得なくなる。もはやこうなってくると、何に対する「実験」なのか、という問題にもなってくる。

……とまあ、実際に書いてみて、ようやく少しわかってきた。なるほどそうか、「実験作」というのは、大まかにいって次の2要素を満たすものなのだ。

1 それまでの「ロックの王道」、「ロック史」を材料とした「実験」である
2 その必然として、音楽的には奇妙な、耳慣れない面を有する

で、本稿を書き進めるにあたって、自分がどこにひっかかっていたのかがやっとわかった。つまるところこの2つの要素、どちらもライ・クーダーの『Jazz』という作品には当てはまらないのだ。にもかかわらず、『Jazz』が偉大なる「実験作」であることは間違いない。どこかの誰かと確かめ合ったわけではないが、でもきっとみんな頷いてくれるはずだと信じている。そういう意味で、間違いないのだ。

『Jazz』は、古き良き戦前のジャズを、1970年代終わりに甦らせようという試みの結果生まれたアルバムだ。ビ・バップからハード・バップ、さらにはフリー・ジャズへという、抽象と具象のあいだを振り子のように揺れる動きこそあったものの、大まかなところではインプロヴィゼーションを中心とした演奏者の表現力を競うという特徴は長らく変わっておらず、良くも悪くもジャンル自体がマニアックな、深く、しかし狭い穴に落ち込んだままになっていた当時のジャズに対するアンチテーゼといっていいだろう。ただし、ライが試みたのはたんなるビッグ・バンド・ジャズやディキシーランド・ジャズの復権ではない。ここで狙われているのは、「ありえたかもしれない」ジャズの別の進化の道筋を想像し、その果てに出てくるはずの「幻の音」なのだ。

「幻の音」と書いたが、ここで鳴っているのは決して奇妙な音ではない。むしろきわめてオーソドックスな印象の強い音楽だ。ドラム、ベース、ピアノにサックスやクラリネット、チューバやビブラフォンといった、ジャズには比較的おなじみの楽器群を用いた6~8人のコンボは、ビッグバンドほどのかっちりとしたスコア感はないが、トリオやカルテットと比べればよりバンドらしい音の出せる編成。インプロヴィゼーション的な演奏の「崩し」ではなく、個々のプレイヤーのセンスの組み合わせ、つまりアレンジで聴かせようとする演奏も含めて、こうした楽曲への対峙の姿勢はジャズやクラシックではなく、明らかにロック系のものである。この、ジャズが本来持っていたにもかかわらず後に切り捨てられていったポピュラー・ミュージック的な側面を軸にした音楽は、失われたものに対する不思議な郷愁こそ誘うが、決して斬新さや奇妙さは持っていない。先に「実験作」の要素として挙げた2番目の、何かとてつもなく新しいことが行われているような感覚には欠けているのだ。

もう一つ、このアルバムを「実験作」と呼ぶのをためらわれる理由は、ここでの試みがロック史には影響の少ない地点で行われているところにある。というか、「ロック的なジャズ」か「ジャズ的なロック」かという乱暴な二分法をあえて用いれば、この作品はたとえばマイルス・デイビスの『Bitches Brew』あたりと並べられてしかるべき「ロック的なジャズ」なのだ。そうなってしまった大きな理由の一つは、参加ミュージシャンのほとんどがジャズ畑のミュージシャンだという点にある。ロック畑からはライ自身とデビッド・リンドレーくらいだし、アレンジも、決してライのスライド・ギターを主役としているわけではない。音数だけ見ればどっちがメインでどっちが「参加ミュージシャン」なのかわからないくらいだ。

じつはこの『Jazz』は、ライ自身が「失敗作」と位置づけている作品である。推測だが、先のような理由に加え、その狙いの斬新さに比して、結果的に出てきた音が思いのほか保守的だったことが不満だったんじゃないだろうか。と同時に、このアルバムは、ファンにライ・クーダーのアルバムの中で一番好きな作品は? と質問した際に、けっこうな確率で名前の挙がる作品でもある。これもまた、ものすごくよくわかる話だ。もちろん僕も大好きだ。出てきた音はどこがスゴいとかどこが新しいとかいう視点では語りづらいものだし、強烈な印象も残らない。けれど、ここにはたしかにライ・クーダーという優れたミュージシャンが、リスナーに何か素晴らしいものを提示しようとしてくれている「良心」のようなものが息づいている。この「良心」を信じないで、何を信じるというんだ?

Bop Till You Drop(8th) [ライ・クーダー(Ry Cooder)]



Bop Till You Drop/Ry Cooder
(邦題『バップ・ドロップ・デラックス』)
(1979)
★★★☆☆

フォーク、カントリー、テックス・メックス、ジャズなど、アルバムごとに狙いを絞ってさまざまなアメリカの伝統音楽を再発見し、独創的な視点から再構築してきたライ・クーダーが、次にドアを叩いたのはR&Bの世界だった。ここには、ライ・クーダー流の解釈を経たファンキーでソウルフルな黒人音楽が展開されている。それはつまり、白人による黒人音楽の消化/昇華という、ロック・ミュージックの本流が挑んできた課題とライの活動とが、ついにぴたりと重なったということに他ならない。たんなるマニアックなルーツ・ミュージック研究家という、玄人受けはするが商業的には存在価値を見出されにくい、決して得とはいえないイメージを脱ぎ捨てる時が、ようやくやってきたのだ。遅ればせながら、ではあるが。

とはいえ、ここで挑戦されているのは、ライにとってまったく未知の音楽というわけではない。黒人音楽ということならば、例えばブルース的な土臭さやゴスペル的な黒さのような武器は、すでに過去のアルバムにおいて獲得され、磨きこまれている。いわばかなりしっかりと強固な土台が『Paradise And Lunch』や『Chicken Skin Music』あたりで完成しており、ここではそれにR&Bのファンキーなリズムを加えればいいだけの状態だった、ということができるだろう。逆にいえばこのことは、すでにある程度完成した世界を土台にするぶん、ゼロから何かを構築していくスリリングさにはどうしても欠けるということを意味する。例えば、『Jazz』のような作品とは違って、だ。でもそれは、単純にどちらがいいという話ではない。ローテーションの柱を任せているベテランのエース・ピッチャーと、新人離れした速球でばったばったと三振の山を築くルーキー投手の、どちらを次の試合で使うべきかという問題みたいなものだ(違うかな?)。答えは単純には決められないし、結果なんてやってみなければわからない。同時に2つの試合を戦うことはできない。そういうことだ。

ともかく、ライはこのアルバムにおいて、これまで築いてきたものに加えて、いくつかの仕掛けを施している。ニール・ヤングのバックバンドであるストレイゲイターズの一員でもあり、J・J・ケイルからビーチ・ボーイズまで数々のセッションをこなしてきたナッシュビルの名ベーシスト、ティム・ドラモンドの起用は、この作品の目玉の一つである。ドラモンドが作り出す粘っこいファンキーなリズムは、ライのスライド・ギターやドラムのジム・ケルトナーの西海岸っぽさと組み合わさるとちょっとリトル・フィートあたりを連想させるところもあるが、それよりさらに、ストレートに黒い。本作唯一のオリジナル曲で、ライとドラモンドが共作した「Down In Hollywood」なんて、ほとんどミーターズ(ニュー・オーリンズの大御所バンドで、Dr.ジョンのバックなどでも有名)じゃないかと思う。

もう一つ、その「Down In Hollywood」と、これまた超ファンキーな「Don't You Mess Up A Good Thing」に参加しているチャカ・カーンもまた、このアルバムに強烈な「色」を加えている存在である。ライのボーカルはご存知の通り、人柄の良さとイコールの「味」が最も大きな魅力だし、ボビー・キングはうまいんだけど、ちょっとスイートすぎるきらいもある。そこへいくと、チャカ・カーンのパンチの効いたソウルフルな歌声は、これまでのライの作品には存在しなかったものだ。たった2曲だが、これがあるとないとでは、このアルバムの印象はまったく違ったものになったかもしれない。

まったく逆の言い方もできる。どうせなら、どうして全曲チャカ・カーンのボーカルをフィーチャーしなかったんだろうか、というのが、じつはこのアルバムに対して僕が長年抱いている疑問の一つなのだ。

いや、本当はボーカルの問題ではないのだ。このアルバムには、どこか統一感のようなものが足りない気がする。もしも全曲、先のチャカ・カーン参加の2曲や「The Very Thing That Makes You Rich」のようなファンキー・ミュージックで攻めきっていたらものすごい傑作アルバムになったのでは、と思うのだが、実際には先に記した「土台」に頼ったナンバーも多く、アルバムとしてのカラーの徹底を欠いているような気がする。「バラエティーに富んだ」という陳腐な表現で逃げることを許せないものが、そこにはある。

例えば、アイク&ティナ・ターナーのレパートリーをギター・インストゥルメント・ナンバーに仕上げた「I Think It's Going To Work Out Fine」などは、ほとんど『Paradise And Lunch』に入っていてもおかしくないナンバーだ。デビッド・リンドレーと、まさに阿吽の呼吸でギターを絡ませていくそのプレイ自体は極上の味わいを持っているが、むしろそれは、この場では唐突に感じてしまう。「これ、『Paradise And Lunch』のアウトテイクだってよ」といわれて、へえ、そうなんだと信じてしまいそうになる曲が入っているのは、決して喜ぶべきことではないと思う。

当時の、このアルバムが制作された背景に、そうしたイメージの徹底を許さなかった事情があるかどうかを、僕は寡聞にして知らない。だが、ライのバランス感覚や、気心の知れたメンバーとのリラックスしたプレイを大切にしたがる気持ちが、このアルバムに対する僕の不満の源になっているような気はする。いずれにせよ、もしもライ・クーダーのベスト・アルバムを編むとしたら絶対に入れたくなる曲がたくさん入っているにも関わらず、ライの最高傑作に推すことはなぜかためらってしまう、僕にとってこの『Bop Till You Drop』は、そんなアルバムなのだ(しかし今気づいたが、これだけのキャリアがあるというのに、ライ・クーダーにはベスト・アルバムが存在しないとは!)。

もう一つだけ。僕が持っているこのアルバムは日本盤のアナログ・レコードなのだが、帯やライナー・ノーツの余白など、あちこちに「デジタル・レコーディング」であることが嬉々として謳われている。どうやら磁気テープを用いない録音は当時としては相当に珍しい最先端技術で、このアルバムはまさにその走りだったようなのだ。そのせいなのかどうか、じつはこのアルバム、音がとても悪い。信じられないくらい、悪い。具体的には、各楽器の音が細く痩せており、厚みがまったくない。かなりひどい代物なのだ。現在発売されているCDで、そのあたりがリマスタリング等により改善されているとしたら、ぜひ聴いてみたいが、どうなんだろう? もしかしたら、それだけで★1つ分くらい、すぐに評価を上げたくなったりしてね。

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Borderline(9th) [ライ・クーダー(Ry Cooder)]



Borderline/Ry Cooder
(邦題『ボーダーライン』)
(1980)
★★☆☆☆

1988年春、アルバム『Get Rhythm』がリリースされてまだ間もない頃、雑誌『Switch』にライ・クーダーのインタビューが載った。あまり長い記事ではないが、そこには新しいアルバムについてはもちろん、ルーツ・ミュージックに対するライの姿勢や自分の音楽スタイルを獲得していった過程、楽器へのこだわりなど、さまざまな興味深いテーマについて、ライ自身の生々しい言葉が刻まれている。その中に、どきりとさせられる一言がある。映画のサウンド・トラックの仕事ばかり精力的にこなす反面、オリジナル・アルバムは5年間も制作されていなかった、その理由について尋ねられて答えた言葉だ。

「しばらくの間、特にソロのレコードを作ろうって気分じゃなかったんです。自分のためにレコードを作る必要は何もない……そんなふうに思えたんです。(中略)ぼくの作った最近の二枚のソロ・アルバム、ほんとうはやりたくなかったんです。だんだんいや気がさしてきて。幸せな気持ちにしてくれなかったんです」(『Switch』1988 APR. Vol.6 No.2)

その「幸せな気持ちにしてくれなかった」二枚のソロ・アルバムが、この『Borderline』と、2年後の『The Slide Area』である。

『Borderline』に収められたサウンド自体は、1年前に発表された前作『Bop Till You Drop』の延長線上にある。それ以前までに積み上げてきた「ライ・クーダー・ミュージック」にR&B的なファンキーさを加えたものということだ。いや、「延長線上」というと、まるでその線が辿るさらに先、より深化したものになっていったみたいだが、それはちょっと違うのかもしれない。僕の印象を正確に言えば、このアルバムがいる場所は、同じ「延長線上」でも、その線を少し戻ったあたりのポイントを指している。つまり、同じ線上にいつつ、音楽的には「後退」しているんじゃないだろうか、ということだ。

その「後退」を具体的に語ることはひどく難しい。「R&B的なファンキーさ」の含有量が減り、それに代わって加わったものがない、というのは一つの回答だが、でも僕が感じる「後退」の印象は、もっと大きなところでの、致命的なものだ。それは、ある程度完成されたスタイルを持つアーティストが、その安全圏内に「後退」し、寝てたってできることをただやっているだけ、という状況を指している。もちろんそういうことは、音楽に限らず、文学でも映画でもゲームでも、もちろん普通の人間の人生にも、どんなことにだって起こりうるのだ。

「(映画音楽に)コーラス&ヴァースという形はありません。この形式はときに抑制され、それゆえ反復的になります。『さあ、コーラスだ。やれやれ、また別のヴァースだ』 ぼくはこういうのにちょっとうんざりしています。ひたすら音だけを料理して、映像のリズムを採り入れるのがおもしろい。(中略)一日が終わって家に帰り、無から何かが生まれたことを知るのは気持ちいいですよ」(同)

気の合ったミュージシャンたちとただセッションをしているだけ、という状況から生まれた印象がぴったりのこのアルバムは、だから内省的な重さや、音楽的冒険に挑む緊張感とは正反対の位相の音に包まれている。コミカルとすらいえる明るさは、しかし無害で、聞き手の中に「毒」を残さない。それでも、逆に考えてみれば、凄腕のミュージシャンたちがここまでリラックスして「自分」を出す瞬間に立ち会えることは、そうあるものじゃない。このリラックス感を生んでいるものこそ、ライ・クーダーのミュージシャン的な人徳、信頼感のようなものなんじゃないだろうか。特にティム・ドラモンドのベースと、そしてジム・ケルトナーのドラムが作り出すリズムは、本来は職人芸的な技術とスタンスをその本質とする二人とは思えないほど奔放で、さまざまなアイデアに満ちている。8ビートとも16ビートともつかない、この軽く細かいグルーヴは、世のベーシストとドラマーは一度は聴いて衝撃を受けてみるべきじゃないだろうか。ここに関しては、たぶん「無から何かが生まれて」いる。

『Bop Till You Drop』の項に、デジタル・レコーディングによる音の痩せが印象を悪くしているのかもしれない、ということを書いたが、じつはこのアルバムにも同じようなことが言える。クリアでシャープといえば聞こえはいいが、どうしても全体的に痩せて貧相な音に感じるのだ。何よりも、ライのギターの音色がひどいと思う。やはり「クリアでシャープ」ではなく「痩せて貧相」になってしまっているその音は、レコーディング機器や技術のせいでそうなっているのではなく、たぶんあえて狙ってやっているのだろうが、はっきり言って失敗だと思う。もちろん、そんなことはライ本人がいちばんよくわかっていたはずで、問題はこれをそのままリリースする、その投げやりな態度こそにある。

ちなみに前作『Bop Till You Drop』は全米アルバム・チャートで、ライのアルバムとしては初のトップ100入りを果たす最高62位を記録したが、この『Borderline』はさらに上を行く43位まで上昇した。投げやりにもなろうってもんだな、そりゃ。

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