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Into The Purple Valley(2nd) [ライ・クーダー(Ry Cooder)]


Into The Purple Valley/Ry Cooder
(邦題『紫の峡谷』)
(1972)
★★★★

じつのところ、僕はこのセカンド・アルバムをライの作品の中でも一、二を争うほど愛聴していて、個人的には最高傑作候補だったりもする。これか『Chicken Skin Music』かな、という感じだ。いや、最高傑作という言葉はやっぱりちょっと違うかな? たんに僕はこのセカンドが一番好きだ、という言い方をするべきなのかもしれない。

ボトルネック奏法を中心に、ギターやマンドリンを自由自在に操るプレイヤーとしてのスタイルとは違い、アルバム制作者という点から見たライ・クーダーは、おそろしくコンセプチュアルな作品作りをするミュージシャンだ。出来上がったサウンドがあまりにも見事(なにしろ自身があまりにも見事なプレイヤーなのだから当然なのだが)なせいでそうは思わせないのだが、じつはかなり頭でっかちな作品づくりをしている。一作ごとに実現しようとしている音楽は微妙に、しかし明確に異なっており、前の作品との単純な比較はできない。そのあたりが、ライ・クーダーをたんなるフォーク/カントリー畑の名ギタリストではなく、時代が無視することのできないロック・ミュージシャンたらしめている大きな理由の一つなのだと思う。

このセカンド・アルバムは、初期三部作のうちの一作、というとらえ方がよくされている。フォーク/カントリー的なアプローチで作られた三作ということで、それ自体はそう的はずれな見方ではない。がしかし、それはゴスペル的な要素を武器として手に入れ、ボーカルやコーラスとリズムが強化されたのちのスタイルとの相対的な比較という、わりと消極的な意味においての分類でしかないとも思う。比較的アコースティックな初期の三作、という程度の意味だ。

その「アコースティック度」という観点から初期の三作を眺めてみると、もっとも「アコースティック的」なのがこの次の『Boomer's Story』だろう。それはたんにサウンドが、楽器が、という意味にとどまらない。スピリットが、実現しようとしている音楽が「アコースティック的」なのだ。逆にファースト・アルバムは最も「非アコースティック的」なのだが、無理をしてそうなろうと努めているようなところがある。あたかも「非アコースティック的」であることが「ロック的」であると思いこんでいるような、ちょっと肩に力の入った感じだ。

ではこのセカンド・アルバムはどうなのだろうか? じつのところ、このアルバム、表面的なサウンドは驚くほど「アコースティック的」だ。アレンジの中心はライの弾くアコースティック・ギターやマンドリンで、エレクトリック・ギターを弾く際も、きわめてナチュラルでマイルドな音作りがなされている。ドラムやベースもドタバタうるさかったファーストとは雲泥の差で、ツボをおさえた必要最小限の仕事をこころがけているかのようなプレイが繰り広げられている。ところが、これはもう不思議というか音楽のマジックとしか呼べないのだが、サウンドはそんなふうに「アコースティック的」なのにもかかわらず、出てきた音楽はとても「ロック的」なのだ。そこが次のサード・アルバムとの違いで、そして僕がこのセカンド・アルバムが好きな最大の理由だ。

ボブ・ディランが「フォーク」を素材とした化学反応で「ロック」を生み出したのは、この7年前、1965年の『Highway61 Revisited』でのことだった。そのディランはファースト・アルバムではトラッドやウディー・ガスリーもどきの曲を歌っていたが、セカンド・アルバムからは一転して自分で曲を作るようになり、以降は作曲者として、シンガーとして「アコースティック的」なサウンドでの「ロック的」な音楽を作り上げる旅に出る。対して、このセカンド・アルバムでも自作曲は一曲もなく、ファーストと同様、ウディー・ガスリーやアッティラ・ザ・フンなどのナンバーを独自のセンスでカバーしているライ・クーダーは、アレンジャーとして、ギタリストとして、つまりディランとは違ったやり方で、ディランとは違った「フォーク・ロック」にたどり着いたのではないだろうか。いささか大げさかもしれないが、でもそんなふうにすら思う。それくらい、ここで実現されたサウンドには、真の才能だけが生み出せるような、安易なカテゴライズを拒む本物の「ロック」が感じられるのだ。

先に述べたドラムに関してだが、この作品ではのちにライにとって盟友とも呼べる存在になっていくジム・ケルトナーが参加していて、ファーストのようなドタバタしたサウンドにならずにすんでいるのは彼の力も大きいのではと思わせてくれる。その、控え目ながらライのギターを最大限に生かすドラミングはじつに見事だ。じつは僕も個人的に大好きなドラマーなんだけど。またライのボーカルも、ファーストから比べると格段の進歩を見せている。

それにしても、ライのギターはすばらしい。テクニックや表現力はもちろんだが、アレンジの中心となるような印象的なフレーズを次々と、アドリブ一発で生み出していくようなこの創造性は、たとえばジミ・ヘンドリックスあたりにも通じるものがあるような気がするのだが、どうだろうか? そういえば、このアルバムはとくに、アレンジにおけるライのギターの役割が大きいような気がする。使われる楽器が決して多くない(例えばこのアルバムにおける鍵盤楽器は本当に脇役程度の存在でしかない)ぶん、スケールや広がりは限定されるが、そのぶんライの天才を堪能できるアルバム、もっと言えば、ギタリストがコピーしたくなる曲が多いアルバムと言えるのではないだろうか。ちなみに僕も昔ずいぶんコピーしたもんです。ギターとボーカルの一人かけあいがカッコイイ「Vigilane Man」にもチャレンジしたし、「F. D. R. In Trinidad」や、フラット・マンドリンを持っていたので「Billy The Kid」なんかもコピーしたなあ。そう、ライ・クーダーの凄さって、コピーしてみるといちばんよくわかるかもしれない。天才だよ、マジで。

収録曲の曲想がバラエティーに富んでいるというのも、僕がこのアルバムが好きな理由の一つだ。最初に述べたようにきわめてコンセプチュアルなサウンドの作り方をするライ・クーダーのアルバムは、ある意味ではそれぞれのアルバム内がかなり強力に同じトーンで染め上げられていて、バラエティーという点では物足りなくなりがちなのが特徴でもある。だが、このアルバムは例外的に、各楽曲がそれぞれ独立したエモーションをリスナーにもたらしてくれる。楽曲の粒ぞろい感という意味でも、オススメの一枚だ。

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