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Jackson Browne 1st~4th [ジャクソン・ブラウン]


Saturate Before Using/Jackson Browne
(邦題『ジャクソン・ブラウン・ファースト』)
(1972)
★★★☆☆

1st『Saturate Before Using』は、まだ、という表現が適切だと思うけど、またフォークソング的な色が強いアルバムになっている。デビュー作的な若さや瑞々しさはもちろん随所に感じられるんだけど、それよりもさらに、磨き抜いてきた楽曲の「原石」としての完成度の高さが、特に歌詞の面で強く出ていると思う。なんか、どの曲もまるで昔から歌い継がれてきたトラッドのように感じられるというか。韻の丁寧さなんて、気づかないくらい自然で、ものすごく注意深く作られていることがよくわかる。ボブ・ディランのような、ある意味野放図な意外性が生み出す印象深さみたいな方向のものは、丹念に排除されている。共に世界を旅した友人の死を歌った『Song For Adam』なんか、まさにそういう名曲だと思う。

サウンドも、そういう意味の地味さで統一されている。とはいえ、野暮ったい、ダサい古臭さにはギリギリで陥らずにすんでいるのは、やっぱりアサイラム・レコードが力を入れて作った作品だけあって、演奏者たちが西海岸の選り抜きのスタジオ・ミュージシャン揃いだったということが大きいんだと思う。ドラムのラス・カンケルとかね。

今聴いて、ああ、やっぱりこれ好きだなあと思うのは、1曲目の『Jamaica Say You Will』。Jamaicaは女の子の名前なんだけど、当然あのジャマイカを連想させるわけで、船やその航海を人生とかけたような歌詞と見事に調和して、最初に書いたような、時代を超えたトラッドソングのような突き抜けた完成度をもって心に響いてくる。サウンドも、この曲(とか、シングルとしてヒットしたというアップテンポな『Doctor My Eyes』あたりとか)に限っては、フォーク的な方向じゃなく、当時の西海岸ロックの、最良の成果を感じさせるものになっている。聴いたことない人は、この曲だけでも聴いてほしいな。


For Everyman/Jackson Browne
(邦題『フォー・エヴリマン』)
(1973)
★★★★★

2ndアルバムの『For Everyman』は、これは20歳過ぎくらいの頃、本当によく聴いた。聴けども尽きぬ滋養に溢れた、素晴らしい作品だと思う。個人的に、ジャクソン・ブラウンで最初に聴くべきアルバムは、と訊かれたら、迷わずこれを勧める。

1曲目の『Take It Easy』は、イーグルスに提供されたというか、作りかけの状態でたまたま聴いたグレン・フライが気に入ってもらい受けた、というエピソードもあるとかないとか。でもね、イーグルスのバージョンに確かに感じられる“Take It Easy”(気楽にいこうぜ)という空気は、ジャクソン・ブラウンのオリジナルバージョンでは、少なくとも主成分にはなっていないと思う。そこにあるのは、“もうこれ以上深刻になっても仕方ない。諦めて、ここからは気楽にいくしかない”という、ものすごく「ジャクソン・ブラウン的」な心のありようで、それが歌声からちゃんと伝わってくる。それってすごいことじゃないかな。

ちなみに『Take It Easy』の歌詞の冒頭はこんなんだし。

Well, I'm running down the road
tryin' to loosen my load.

背負った重荷を下ろそうと懸命になって
ずっと走ってきたんだよ

で、2曲目の『Our Lady Of The Well』に繋がる流れが、これだけでご飯が3杯食べられるぐらい感動的。演奏がそのままつながって次の曲に入っていく演出なんだけど、本当にすごい。で、その2曲目は旅の末にたどり着いた国で思うこと、みたいな曲で、

But it's a long way that I have come
Across the sand to find this peace among your people in the sun.

でもここまでは長い道のりだったよ。
砂漠を越え、この素敵な人々に囲まれる安息を見つけるまでは

と歌われる瞬間、なんというか、3分くらいの曲を集めて「アルバム」という単位で鑑賞する、ポップ・ミュージックというジャンルでしか得られない感動が胸に押し寄せてくる。

3曲目の『Colors Of The Sun』は、「暗」から「明」へ移る展開が素晴らしい曲。このあたりの楽曲の「作り」の大きさというか、1曲ごとのスケール感が格段に増した感じは、デビュー作にはなかったものだと思う。

5曲目の『These Days』は、これは名曲。というか、この時期のジャクソン・ブラウンを象徴する1曲だと思う。歌われているのは愛した女性との別れと、それを思い出す現在の自分というものなんだけど、その歌詞が独特なのだ。練り込まれた、余分なものが削ぎ落とされた歌詞は、結果的にすごく抽象的なことについて歌っている感じになるんだけど、でもなぜか具体的なものについて歌われていることが伝わってくる。

文学(というか芸術)表現に、アレゴリーとシンボル、という考え方がある。僕もすごく詳しいわけじゃないしもしかしたら認識が間違ってるかもしれないけど、例えばトム・ウェイツがやっているのは、徹底的に、過剰に具体的な「ある一例」をストーリーとして提出して、そこから鑑賞者に、普遍性のある感情を喚起させるということで、これが「シンボル」的な表現。

それに対して、ジャクソン・ブラウンがやっているのは、徹底的に抽象的な、あらゆる事例に共通する最も重要な「骨組み」をまず取り出して、その骨組みに、ストーリーという肉付けをしていく。そして鑑賞者ひとりひとりに、自身の個別の事例を喚起させる、「アレゴリー」的な表現なんだと思う。

サウンドに話を移すと、このアルバムを語る時に絶対に外せないのが、デビッド・リンドレーの存在だ。ギターを始めとしたさまざまな弦楽器を駆使してほとんどの曲に絡んでいる彼の演奏が、ジャクソン・ブラウンの音楽に大きさを、幹が伸びる空間を作り出している。そんな感じがある。8曲目の『Ready Or Not』のフィドル(カントリー調のバイオリン)なんて、なんともいえない独特のものを現出させている。

次の『Sing My Songs To Me』のギターも、ボーカルと並んで歩く感じがもう最高。そして、ここからアルバムの最後を飾るタイトル曲『For Everyman』に切れ目なく演奏は繋がっていく。1曲目と2曲目でやってることがここでも行われているわけだけど、本当に、まるで繋がった曲のようになっている。この、メロディーが次に展開する瞬間の感動たるや。ああ、本当に、みんなに聴いてほしいアルバムだと心から思う。


Late For The Sky/Jackson Browne
(邦題『レイト・フォー・ザ・スカイ』)
(1974)
★★★★

3rdアルバムは、基本的に前作を踏襲したものになっている。よく70年代の「名盤」として挙げられることの多い作品だけど、基本的な手触りは同じだと思う。デビッド・リンドレーとのコンビネーションの素晴らしさも含めて。

あえて違いを挙げるなら、楽曲のスケールが、演奏も含めてさらに大きくなっているところ。曲の完成度のバラつきがよりなくなって、全体の完成度の高さの印象に繋がっているところかなと思う。1人のシンガーソングライターをセッション・ミュージシャンたちがバックアップして作り上げる音と、共同体的な「バンド」の音が違うものとしてあるならば、後者に限りなく近づいていっている前者というものを強く感じることができる。そんな感じが個人的にはある。

1曲目のタイトル・チューン『Late For The Sky』は、凄まじいまでの名曲。リンドレーのギターがソロで入ってくるところとか、いやもう。鳥肌が立つ。ただ、歌詞が難解で、2ndの『These Days』のところで書いたジャクソン・ブラウン的アレゴリー、抽象が、確信的に表現として使われていて、日本人の僕には少しだけ手に負えない感じもある。

ただ、その「わけのわからなさ」は米国人にもあるようで、そもそも“Late For The Sky”という表現自体、じつははっきりとこれだ、といえる答えはないという話。そういう歌詞がもたらすスケールの大きさ、なんでも放り込めるスペースの大きさが曲の印象とマッチしているという凄さが、ここにはある。

『Fountain Of Sorrow』は、すごくよくできた曲。演奏も素晴らしい。メロディーがビリー・ジョエルみたいで、ジョエルがほぼ同時期に東海岸でデビューして活躍していたことを考えると、なんか面白いシンクロニシティを感じる。どっちがどっちに影響、とかそういう話じゃまったくなくて。

『Farther On』は『Late For The Sky』と同じ方向のスケール感のある曲。こういう感じは、1stにはなかった。

7曲目の『Walking Slow』は、これすごくイーグルスっぽいと思う、個人的に好きな曲。5曲目の『The Road And The Sky』みたいな典型的なロックンロールってアルバムに1曲は入れがちだけど、同じアップテンポの明るいナンバーということなら、こういう方が断然好みだな。リンドレーのスライド・ギターはライ・クーダーやローウェル・ジョージ的なものとはまた違う、いちミュージシャンとしてのデビッド・リンドレーの個性が端的に現れている演奏だと思う。

最後の『Before The Deluge』は、80年代以降のジャクソン・ブラウンのテーマの一つになっている反核の歌。ということになっているけど、一聴した感触は自然賛歌、といったくらいだったりする。

これはごく私的な意見にすぎないけど、テーマが具体的すぎると、ジャクソン・ブラウンのオリジナルな持ち味である抽象化の能力がうまく機能しない。歌詞としての落とし所が、陳腐になりそうになったり、不明瞭になったり、苦労する。そういう印象があるんだよなあ。こういうのは、ニール・ヤングとかの方が得意だったりするんじゃないかな。『After the Gold Rush』あたりのことを言ってるんだけど。


The Pretender/Jackson Browne
(邦題『プリテンダー』)
(1976)
★★★★★

先に言っちゃうと、この4thアルバムは、個人的にジャクソン・ブラウンのアルバムの中でいちばん好きな作品だ。サウンド的には、デビッド・リンドレーはもちろんだけどそれだけじゃなく、リトル・フィートのローウェル・ジョージとビル・ペインや、後にTOTOでも有名になる凄腕セッション・ドラマーのジェフ・ポーカロとか、超のつく一流ミュージシャンが参加して、かなりロック的な、バンド的な方向に寄っている。前作までのアットホームなシンガーソングライター的なサウンドとは、少し違っている。で、僕は基本的に、二択ならそっちのサウンドが好きで、それは大きな理由だと思う。

で、そういうサウンドで行くことの代償として、この作品のレコーディングはかなり長い期間、膨大なエネルギーを投じて行われたのだという。曲を書くのもたいへんだったようで、絞り出すように、でも丁寧さは失わずに、珠玉ともいえる楽曲の数々が生まれて、収められている。

そんなレコーディングの、これは終盤だったそうだが、奥さんが自殺するという悲劇がジャクソン・ブラウンを襲う。

実際にその耐え難い悲しみがどの楽曲に、どのくらい反映されているのかはわからない。いろんな当時のインタビューなんかでは、これは考えてみれば当たり前のことだけど、基本的には関係ないという曲の方が多いという。それでも。

それでも、このアルバムを覆っている重苦しい空気は、そういう心の影を感じさせずにはいられない。逆にいえば、事情を知らなくても、そのくらいただ事ではない重たさ、シリアスさ、ギリギリの切迫感が伝わってきて、なんだこれは、と思わざるを得ない。そういう言い方の方が適切かもしれない。

だいいち1曲目の『The Fuse』の重さからして、もう普通じゃない。陰鬱な感じすらある。でも、それが曲が進むに連れて明るい方へ、前へ、上へと解放されていく。そして最後の“Say Yeah!”の咆哮。疑いようなく、ロック・ミュージックの力を感じさせる名曲だと思う。テーマは、骨子には反核的なものがあるけれど、それを人の生き方と絡めて、結果的に聖書的な抽象の匂いを感じさせるという、スケールの大きなものになっている。

で、次の『Your Bright Baby Blues』は一転してフォーク的なサウンドで、このコントラストはすごくいい。ローウェル・ジョージのコーラスがこれまたいい。サウンドだけじゃなく、曲もすごくいい。サビの

Baby if you can hear me
Turn down your radio.

僕が何か言ってるな、と思ったら
ラジオの音を小さくしてほしいな

というフレーズ、なんか耳に残るんだよね。

『Linda Paloma』はメキシコのマリアッチを思い切りやってみました、という、ジャクソン・ブラウンにしては珍しいサウンド作り。こういうのもこれまでのアルバムにはなかった。結果的にここまで3曲、バラエティに富んだラインナップが、アルバムとしての奥の深さを醸し出してると思う。

そして4曲目の『Here Come Those Tears Again』になる。奥さんの死をきっかけに作られた曲だ。曲のクレジットは、奥さんの母親である女性との共作になっている。でも、歌詞自体には直接的にそういう悲劇を感じさせるものはない。愛する人がいなくなった悲しみを、未来へ顔を向けた状態で淡々と、でも涙を流しながら語っているという歌だ。

個人的には、歌詞や作者の境遇自体に自分の何かを投影したりとか、そういう聴き方にはじつはそんなに興味はない。僕の心を打ったのは、この曲が、というかジャクソン・ブラウンの曲が持つ「明」と「暗」、「陽」と「陰」のコントラストと、その間の移動の鮮やかさだったりする。そういう立体性が、曲を聴いたときのエモーションを複雑な、平板ではないものにしてくれる。

メジャーコードの穏やかなモチーフから短調へと転調する時、僕たちは、現実というものは喜びと悲しみが、生と死が薄い板一枚の裏表であることを実感するし、暗いモチーフが力強い演奏とともに明るい展開を見せるとき、僕たちは本当に希望を見つけたような気持ちになる。そんなことができるのって、音楽だけじゃなく文学でも映画でも、そうあるものじゃないと思うのだ。

次の『The Only Child』は、残された当時3歳くらいの一人息子に向かって歌った曲。mother、another、each otherといった韻がものすごく印象的な、心に染み入る曲だ。

『Daddy's Tune』は、前作にもあったビリー・ジョエル的な匂いのする曲。考えてみればジャクソン・ブラウンとビリージョエルって、西海岸と東海岸というのをはじめ、いろいろと似ていて、でもいろと対象的な存在だと思う。

アルバムの最後に置かれたタイトル曲の『The Pretender』は、何度聴いてもじんわりと不思議な感情が押し寄せてきて、夜中に一人で聴いてたりなんかしたら、つい涙が出てくるような曲。とはいっても大げさな叙情に頼っているわけではなく、むしろ少しだけ物哀しい明るさを讃えて歌われる、人生についての率直でリアルな考察。すべてに投げやりになりそうな若者の危うさと、でもそこから半ばやむを得ず、半ば本能的な意思の力で前を向こうとする瞬間を捉えた、深く響く名曲だと思う。

歌詞の冒頭はこう。いちおう超絶私的な意訳も添えて。

I'm going to rent myself a house
In the shade of the freeway.
Gonna pack my lunch in the morning
And go to work each day.
And when the evening rolls around
I'll go on home and lay my body down.
And when the morning light comes streaming in
I'll get up and do it again.
Amen.
Say it again,
Amen.

高速道路の陰に、安い家を借りようと思う。
で、毎日、自分で作った弁当を持って仕事に行くんだ。
日が暮れたら家に帰って、横になる。
そして眠れようが眠れまいが、朝陽が射し込んできたら、
また起きて、同じことを繰り返すんだよ。
アーメン。
もう一度、祈ろう。
アーメン。

なんかこう、若者って一度はこんな感じに襲われない? オレだけ? 世界に自分が理解されるとは思えない絶望感。その根拠のない絶望感は、理解されないならばいっそのこと隠者のように一生を終えるのも悪くないかもしれない、とすら思わせるものだったりする。

タイトルの「Pretender」ってのは、「何かのふりをする人」というような意味で、この曲で歌われている内容の方向性を加味するなら、「本当の自分を、気持ちを隠して生きている者」とでも訳すのがいちばん適してるんじゃないかと思う。で、若者は時に、あと自分に残された道はそれしかないと思いこんだりするわけだ。

だって、ほんとに馬鹿なんだから、若者ってやつは。

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