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Chicken Skin Music(5th) [ライ・クーダー(Ry Cooder)]


Chicken Skin Music/Ry Cooder
(邦題『チキン・スキン・ミュージック』)
(1976)
★★★★★

思い切り単純な図式で語ってしまうと、デビュー作が「素の」ライ・クーダーなのだとしたら、セカンドでは「バッド・オールド・デイズ」のフォーク・ミュージックを探求し、サードではブルースの故郷である南部へと赴き、そして前作ではゴスペル的な黒っぽさを獲得するなど、1作ごとに着実に音楽的な武器を鍛え、自分のものとしてきたライ・クーダーが、その成長のとりあえずのピークを迎えた、デビュー以来の旅路の総決算的な作品こそ、この『Chicken Skin Music』なのだと言うことができるだろう。

具体的には、ここでは新たにフラーコ・ヒメネスというアコーディオン奏者の起用によるテックス・メックスの、そしてギャビー・パヒヌイとの出会いによるハワイアン・ミュージックのエッセンスが、それぞれ注入されている。いや、それらのサウンドを取り入れたとか、テイストを加えたとか、そんな言い方が軽薄なものに思えてしまうほど、このアルバムが実現している音楽性は、テクニックや手法を超えたスピリットのレベルで遙か高みに達している。ライ・クーダーという一人の天才ミュージシャンが自らの内に育んできた音楽が、余すところなく、これ以上ないほど幸福なかたちでアウトプットされている。だって考えてもみてほしい。アメリカン・フォークとブルースとゴスペルに加えて、テックス・メックスとハワイアンのサウンドまでが一枚に混在していて、それがまったく違和感なく、というか至上の組み合わせに思えるような最高の音楽が実現しているのだ。これが天才の仕事でなくて、いったい何だというのか。

ところで、いま「ライ・クーダーという一人の天才ミュージシャンが」という書き方をしたが、もちろんこれはライ・クーダーがいちギタリストである以前にいちミュージシャンであるという、しごく当たり前の考え方に基づいた表現だ。だが、もしかしたら「一人のミュージシャンとしての」ライ・クーダーにさほど関心はないが、「スライド・ギターを武器とする天才ギタリスト」であるライ・クーダーには大いに興味がある、というリスナーはいないとも限らず、だとするなら、そういう人にとってこのアルバムは、とてつもなく退屈な作品になってしまうかもしれない。それくらい、このアルバムにおけるライのギターは脇役に徹しきっているのだ。

いや、脇役とか主役とか、そういう考え方自体がライ・クーダーを「いちミュージシャン」ではなく「たんなるギタリスト」としてしかとらえようとしないリスナーの用意したフィールド上の議論のような気もするが、少なくともライのギターがこのアルバムで「いちばん目立つ音」でないことは確かだ。「さあ、ここから超絶テクニックのギター・ソロですよ!」というようなプレイも見あたらない。聴こえてくるのは、これまでどおりのギターやマンドリンだけでなく、バホ・セストやマンドーラといったメキシコの楽器の不思議な音色であり、譜面に起こしたらもはや誰のプレイなのかなんてわからなくなってしまいそうなバッキングなのに、一聴しただけでこれはもう絶対にライ・クーダーとしか思えないほど個性的なプレイであり、まるで効果音のようにここぞというところに入ってくるアコースティック・スライドの生々しいビブラートであり、とにかくライ・クーダーでなければ出せない素晴らしい音ばかりなのだ。

どの曲も素晴らしく、それぞれに少しずつ別の魅力、聴きどころを持っているため、曲単位での順位をつける気にはなれないのだが、じつはアルバムの流れで聴いていくと、僕はいつも同じところで鳥肌が立つ。A面(アナログ・レコードしか持ってないんです)最後の「He'll Have To Go」と、同じくB面の最後を飾るレッドベリーの名曲「Goodnight Irene」だ。どちらもフラーコが最大限にフィーチャーされたナンバーで、演奏が始まってアコーディオンが聴こえてきた瞬間の、なんとも言えないノスタルジックな開放感(ってヘンな表現だがわかってもらえるだろうか?)がもうたまらないのだ。この瞬間を味わいたくて次もまた頭から聴くことになるわけで、こういうとき、「アルバム」という作品形態とはよくできたものだとあらためて感心することになる。

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