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Jazz(7th) [ライ・クーダー(Ry Cooder)]


Jazz/Ry Cooder
(邦題『ジャズ』)
(1978)
★★★★

長いキャリアを持つアーティストには、決まって「実験作」とか「異色作」と呼ばれる作品がいくつか存在する。

……と書き出してみて、いきなり困ってしまった。書き出しに続いて、「例えば」と、いくつかの例を挙げていこうと思ったのだが、いざ書こうとすると、うまい例が思いつかないのだ。「うまい例」というのは、今回論じようと思っているライ・クーダーの『Jazz』へと着地できるような例、ということなのだが。ともかく、もういちど最初から書き直してみるとしよう。長くなりそうだな、しかし……。

一般的にロックの世界には「実験作」と呼ばれている作品がある。たとえばビートルズの『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』がそうであり、クラッシュの『Sandinista』もたぶんその一種で、新しいところではレディオヘッドの『Kid A』なんかもそういうことになるだろう。この手の作品は、例えばサイケデリック・ムーヴメントのような大きな枠組みの文化をロック・ミュージックという具体的なジャンルの表現として定着させようという試みであったり、アナログ何枚組といったいささか常軌を逸した大ボリュームの作品を発表し、その常軌の逸しかた自体を表現として組み込むようなメタレベルのメッセージめいた手法の実践であったり、あるいはテクノロジーの進化がロックに本質的な部分で影響を与えうることの証明であったりして、要するにロックの歴史における実験という意味において、まさしく「実験作」と呼ぶにふさわしい位置を占めている。

他方で、キャプテン・ビーフハート、キング・クリムゾン、あるいはヴェルヴェット・アンダーグラウンドといった存在もまた、「実験」というタームでロック・ミュージックを斬っていくうえで無視できないということは、ロック・ファンなら誰もが知っている歴史上の事実。当然、『Trout Mask Replica』や『In The Court Of The Crimson King』や『The Velvet Underground & Nico』を「実験作」と呼ぶことは広い意味で間違いではないのだろうが、ただこれらのアーティストは、その存在、そのスタイル自体が「実験的」なのだともいうことができる。その意味では発表されたすべてが「実験作」なのだ。これをアーティスト個々の作品史内の文脈で見てしまうと、「実験作」の基準は極端にハードルが上がるか、もしくはまったく別種の物差しを持ってきて判断せざるを得なくなる。もはやこうなってくると、何に対する「実験」なのか、という問題にもなってくる。

……とまあ、実際に書いてみて、ようやく少しわかってきた。なるほどそうか、「実験作」というのは、大まかにいって次の2要素を満たすものなのだ。

1 それまでの「ロックの王道」、「ロック史」を材料とした「実験」である
2 その必然として、音楽的には奇妙な、耳慣れない面を有する

で、本稿を書き進めるにあたって、自分がどこにひっかかっていたのかがやっとわかった。つまるところこの2つの要素、どちらもライ・クーダーの『Jazz』という作品には当てはまらないのだ。にもかかわらず、『Jazz』が偉大なる「実験作」であることは間違いない。どこかの誰かと確かめ合ったわけではないが、でもきっとみんな頷いてくれるはずだと信じている。そういう意味で、間違いないのだ。

『Jazz』は、古き良き戦前のジャズを、1970年代終わりに甦らせようという試みの結果生まれたアルバムだ。ビ・バップからハード・バップ、さらにはフリー・ジャズへという、抽象と具象のあいだを振り子のように揺れる動きこそあったものの、大まかなところではインプロヴィゼーションを中心とした演奏者の表現力を競うという特徴は長らく変わっておらず、良くも悪くもジャンル自体がマニアックな、深く、しかし狭い穴に落ち込んだままになっていた当時のジャズに対するアンチテーゼといっていいだろう。ただし、ライが試みたのはたんなるビッグ・バンド・ジャズやディキシーランド・ジャズの復権ではない。ここで狙われているのは、「ありえたかもしれない」ジャズの別の進化の道筋を想像し、その果てに出てくるはずの「幻の音」なのだ。

「幻の音」と書いたが、ここで鳴っているのは決して奇妙な音ではない。むしろきわめてオーソドックスな印象の強い音楽だ。ドラム、ベース、ピアノにサックスやクラリネット、チューバやビブラフォンといった、ジャズには比較的おなじみの楽器群を用いた6~8人のコンボは、ビッグバンドほどのかっちりとしたスコア感はないが、トリオやカルテットと比べればよりバンドらしい音の出せる編成。インプロヴィゼーション的な演奏の「崩し」ではなく、個々のプレイヤーのセンスの組み合わせ、つまりアレンジで聴かせようとする演奏も含めて、こうした楽曲への対峙の姿勢はジャズやクラシックではなく、明らかにロック系のものである。この、ジャズが本来持っていたにもかかわらず後に切り捨てられていったポピュラー・ミュージック的な側面を軸にした音楽は、失われたものに対する不思議な郷愁こそ誘うが、決して斬新さや奇妙さは持っていない。先に「実験作」の要素として挙げた2番目の、何かとてつもなく新しいことが行われているような感覚には欠けているのだ。

もう一つ、このアルバムを「実験作」と呼ぶのをためらわれる理由は、ここでの試みがロック史には影響の少ない地点で行われているところにある。というか、「ロック的なジャズ」か「ジャズ的なロック」かという乱暴な二分法をあえて用いれば、この作品はたとえばマイルス・デイビスの『Bitches Brew』あたりと並べられてしかるべき「ロック的なジャズ」なのだ。そうなってしまった大きな理由の一つは、参加ミュージシャンのほとんどがジャズ畑のミュージシャンだという点にある。ロック畑からはライ自身とデビッド・リンドレーくらいだし、アレンジも、決してライのスライド・ギターを主役としているわけではない。音数だけ見ればどっちがメインでどっちが「参加ミュージシャン」なのかわからないくらいだ。

じつはこの『Jazz』は、ライ自身が「失敗作」と位置づけている作品である。推測だが、先のような理由に加え、その狙いの斬新さに比して、結果的に出てきた音が思いのほか保守的だったことが不満だったんじゃないだろうか。と同時に、このアルバムは、ファンにライ・クーダーのアルバムの中で一番好きな作品は? と質問した際に、けっこうな確率で名前の挙がる作品でもある。これもまた、ものすごくよくわかる話だ。もちろん僕も大好きだ。出てきた音はどこがスゴいとかどこが新しいとかいう視点では語りづらいものだし、強烈な印象も残らない。けれど、ここにはたしかにライ・クーダーという優れたミュージシャンが、リスナーに何か素晴らしいものを提示しようとしてくれている「良心」のようなものが息づいている。この「良心」を信じないで、何を信じるというんだ?
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コメント 1

symplexus

軍土門さん,お久しぶりです.
 実験的というカテゴリーから想定されるものがライの場合
   ロック的ジャズというのは面白いですね.
 コード進行や音階の約束事からも自由であろうとしたあの
  マイルス・デイビスが,最晩年
   シンディー・ローパの
    タイム・アフタ・タイムをとりあげたことと
  どこか繋がるものがあるのでしょうか.

 こちらもまたちょっと和風のものを最近作ってみました.
暇な時どうぞ.    
by symplexus (2008-10-25 19:29) 

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