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Desire(18th)~Hard Rain(19th) [ボブ・ディラン(Bob Dylan)]

作った本人が「どうしてこんな暗い歌をそれほど多くの人が好んで聴くのかわからない」と言ってしまうほど内省的な『Blood On The Tracks』後、ディランは「書くべきことを何も持っていなくて、レコードを作る気などまったくない」状態に陥ったという。まあ、そりゃそうだろうな、と思う。あれだけの名作を発表したあとなんだから、1年か2年くらい充電のために休養したりしても、ぜんぜん不自然じゃないと思う。が、しかしディランの凄いところはそれをしないところなのだ。

自分の内から「何か」が溢れ出るのを待てないのなら、外から刺激を与えてやればいい。この時期、ニューヨークのグリニッジ・ビレッジでの生活で出会ったさまざまなアーティストたちからの刺激は、ディランにとって格好のエネルギー源となったようで、1975年夏にはもう新たな人脈を中心にアルバム『Desire』のためのセッションを始めている(前作のレコーディングを終えたのが1975年1月なのだから、それからわずか半年後だ)。秋には、無実の罪で投獄されていた元ボクサーのハリケーン・カーター支援のための曲「Hurricane」を発表し、さらにはアルバムの制作メンバーを中心とした仲間と、企画的にも音楽内容的にも出たとこ勝負を絵に描いたような「ローリング・サンダー・レビュー」のツアーをスタートさせている。この模様はライブ・アルバム『Hard Rain』に収められている。

外からのエネルギーに、それを超えるような、ほとんど理不尽なまでの量のエネルギーで応えたこの時期のディラン。その激しさと特異な音楽性は、ディランの全キャリアの中でも他に似たもののない、唯一無二のものである。特に『Hard Rain』は、個人的にもディランの全作品でベスト3に入れたい傑作中の傑作だと思っている。


Desire/Bob Dylan
(邦題『欲望』)
(1976)
★★★★

人は誰も、内部から湧き出るもののみでは生きられない。外部からの刺激がなければ、その人は赤ん坊のままである。ディランにしたって例外ではなく、ウディー・ガスリーをはじめとしたトラッドやラジオから流れるアメリカン・ミュージックという刺激抜きに、この偉大なミュージシャンが世に出ることはなかったと断言できる。

「外部からの刺激」という点では、ザ・バンドとのコラボや、80年代以降のマーク・ノップラーやダニエル・ラノワといったプロデューサーとの共同作業がわかりやすい例としてすぐに思い浮かぶかもしれない。だが、前者はある意味で魂の兄弟のような存在として互いに惹かれあった結果としてのコラボであり、純粋な異物としての「外部からの刺激」ではなかった。また後者は、役割分担がはっきりしているぶん、その刺激へのディランの呼応の仕方にも限界がある。それはあくまでも音楽制作上の技術的な「刺激」であり、魂への「刺激」ではなかった。

そう考えると、この『Desire』から『Hard Rain』の時期の特異性がはっきりする。西海岸のイーグルスが「Hotel California」で「夢の終わり」を歌うのが1976年、ロンドンでセックス・ピストルズが衝撃的デビューを飾るのが1977年。ニューヨークにも当然、パンク・ロックが芽吹きはじめており、たとえばディランもビレッジのクラブでパティ・スミスのライブを観たりしていたらしい。そんな空気に刺激されたディランが、その刺激を自分の中で熟成させる間も惜しむかのように、「身体で」反応して作ったのがこの2枚のアルバムなのだ。ディランほどの大物ならば、パンク・ムーブメントの行く末をもう少し見守り、自分に使える武器を吟味した後に、それを使うということもできたはずだ。しかしそれをせず、自ら率先してムーブメントに呼応(繰り返すが「吸収」ではない。あくまでもストレートな「呼応」であり即物的な「反応」だ)したその軽率さこそ、時代を動かす超一流アーティストのみが持ちうる素養なのではないだろうか?

……と書いてくると、まるでディランがいわゆるパンクをやってるみたいだが、そういうことを言っているわけではない。たしかに、バックのミュージシャンの中心人物であるベースのロブ・ストーナーは、無名ながらビレッジのクラブ・シーンで活躍していた、ある種ラモーンズ的な(?)ロックンロールを演奏するバンドのメンバーだし、ストーナーの紹介で集まった他のミュージシャンたちにしても、その奔放なプレイは、ルーツ・ミュージックの束縛から自由な新しい世代のセンスを強く感じさせるものではある。特にライブ・アルバムの『Hard Rain』の方にはそうした色合いが強いが、しかしここで実現されているのは、決して後にいわゆるパンクと名付けられるようなものとイコールで結ばれる音楽ではない。

この『Desire』のサウンドを一言で表すならば「テンションの高い叙情性」といったところではないだろうか。具体的にサウンドの鍵を握るのは、バイオリンのスカーレット・リベラ、そしてバックというよりはデュエットという感じで全面的にコーラスをつけているエミルー・ハリスという、女性二人だ。スカーレット・リベラは、ビレッジの路上で演奏しているところをディランにスカウトされたミュージシャンで、アルバムでは哀愁漂うジプシー風のバイオリンをこれでもかと弾きまくっている。また、フォーク/カントリー畑のシンガーであるエミルー・ハリスは、たとえばジョーン・バエズなどとはまた違った、清涼感あふれる、無垢な気高さを感じさせる声で、全体に透明な厚み(矛盾しているようだが、しかしこうとしか表現できない)を与えている。この2つの要素があまりにもアルバム全体をしっかりと覆っているせいで、サウンド的には一本調子な感もあるのだが、楽曲のバラエティーと、ある意味、歌謡曲的とすら言えるメロディアスさがそれを補い、なお強烈な印象を残している。大げさなドラマチックさでハリケーン・カーターの無実を切々と訴える「Hurricane」、中近東風メロディーでエジプトの女神を歌った「Isis」、フラメンコっぽいギターが印象的な「One More Cup Of Coffee」、テックス・メックスのムード漂う「Romance In Durango」、アフリカ的エスニック風味の「Mozambique」など、国籍不明テイストの楽曲が次から次へと登場して飽きさせない。おそらくはスカーレット・リベラのバイオリンにインスパイアされて作られた曲が多いのだろうが、そういった異国情緒を消化する間もなく排泄しているようなこのストレートさが、一度聴いたら頭から離れないようなわかりやすい叙情性を生んでいるのだろう。

深みや多義性という点では他のアルバムに一歩譲るかもしれないが、パワフルなポップさという点ではディランの全作品でもナンバーワンと言えるのではないだろうか。セールス的にも大成功を収めたアルバムだ。個人的には、とても日本人好みな作品のような気がしている。たとえば、ラルクとかグレイとか好きな人がディランを聴きはじめようとするときにはぴったりというか。

……って、どんだけ針の穴を通すようなレア・ケースだよって話ですね(笑)。


Hard Rain/Bob Dylan
(邦題『激しい雨』)
(1976)
★★★★★

ドサまわり、ルーズ、ジプシー一座、ミンストレル・ショウ、ぶちまけ、予定調和の破壊、etc……。なぜかこのアルバムを語るとき、人はこういった感じの、単語の羅列という手法を用いたがる。理屈を説いていくのではなく感性に訴えかける手法。要素の積み上げで全体像を表出させるのではなく、多面体をさまざまな角度から眺めていくような並列的表現。つまり散文的ではなく、詩的。こうした語り口で語りたくなるということが、いやそれ以前に、その素晴らしさを誰か他人に伝えたくてしかたなくなるということ自体が、この作品の最大の特徴なのではないだろうか?

とはいえ、それだけではレビューとしてははなはだ具体性を欠くので、もう少し何か言ってみよう。

作品の魅力は、いちばん最初に例として羅列した単語が、はからずもほぼ言い表しているだろう。とにかく「ロック」のカッコよさをいったん形而上的に抽出し、それをあらためて形而下のサウンド(というか、もっと広い意味でのパフォーマンス)に落とし込むことができるとしたら、きっと出てくるのはこういうものなのではないだろうか。カントリーだとかヘビー・メタルだとかパンクだとか細かいジャンルはいいから、ロックが好きならとにかく聴いてみな、絶対シビれるから。他人にそういう言い方で薦めたくなる作品なんて、そうあるものではない。

よく知られているように、このアルバムに収められているのはディランが1975年から76年にかけて行った「ローリング・サンダー・レビュー」という名のツアーでの演奏を収めたものだ。一般的には1975年のいわゆる「第一期」の方がテンションが高いということで評判がよく、76年の「第二期」はややダレているというような話を聞く。この『Hard Rain』は第二期のもので、第一期の音は長らく海賊版でしか聴けなかったが、2002年についに『The Bootleg Series Vol.5』として正規盤が出た。で、これはあくまでもそれらを聴き比べた感想だが、少なくともこの2枚のアルバムに関しては、言われているような差を感じることはない。どちらが上で、どちらがダメということはない。本当に。おかしな評判を真に受けて、片方しか聴かないということがあったとしたら、それは不幸としか言いようがないと思う。

『The Bootleg Series Vol.5』についての詳細はその項に記すが、つまるところこの2枚は、同じツアーを音源とした作品なのだが、まったく性格の違う作品として聴くべきなんだと思う。具体的には、『Hard Rain』はオリジナル・アルバムとして、そして『The Bootleg Series Vol.5』はライブ・アルバムとしてとらえるのがいちばん正しいような気がしている。

もしかしたら、第二期のツアーはコンサートとしては本当にアラの多いものだったのかもしれない。それは今となっては確かめようがない。だが『Hard Rain』に収められたパフォーマンスは、捨て曲など一切ない、本当に見事なものばかりだ。収録曲が少ないこともよかったのだろうし、並べ方もベストだ。ものすごく乱暴な例えをするなら、解散間際のビートルズがバンドとしては壊滅的に雰囲気が悪化しており、とても協力して何かを作るような状態ではなかったにもかかわらず、『Abbey Road』という素晴らしい作品が生み出されたのに近い感じがしている。

ちなみに楽曲はすべて発表済みのもので新曲はないが、すべて新曲として聴いて問題なし。それくらいアレンジが違う。というか、「ディランはライブでは自分の曲をまったく変えて演奏する」伝説を作ったのがこのアルバムだったりするのだから。

一曲、一曲については、あちこちでいろんな人が熱く語っているだろうから割愛する。というか、全部素晴らしくて、語りたくなるトラックばかりなのだ。中でも個人的にいちばん好きなのは「Shelter From The Storm」。もうずっとこの曲だけ聴いていたくなる、名演中の名演だと思う。2、3時間くらいなら余裕で大丈夫。歌詞が何百番分必要なんだよって感じだけど。

Street Legal(20th)~At Budokan(21st) [ボブ・ディラン(Bob Dylan)]

1978年2月、ついにディランが日本にやって来た。オーストラリア、ニュージーランドなどを回るツアーの一環で、武道館で8回の他、大阪の松下電器体育館で3回の公演を行ったディランは、いったん帰国して4月にサンタモニカのスタジオに入り、なんとたった1週間で『Street Legal』を録音。レコーディングはツアーのメンバーが中心だった。その後ディランはすぐにツアーを再開し、今度はヨーロッパから北米へと回る。ファンのもとへは6月に『Street Legal』が届けられ、次に日本でのみ発売の『武道館』が11月に出たが、これが世界中でプレミア価格で取り引きされる事態となったため、急遽翌79年4月に日本以外でも『At budokan』のタイトルで発売された。

以上のように、この時期、ディランはツアーに明け暮れており、『Street Legal』はそこで得たものから生み出された作品と言える。また『At Budokan』と『Street Legal』は、まったく同じとは言えないものの、サウンド的にも似た方向性を持っている。ゴスペル調の女性コーラスとサックスをフィーチャーした、軽くてポップなそのサウンドは、他の時期のディランには見られない特異なものである。


Street Legal/Bob Dylan
(邦題『ストリート・リーガル』)
(1978)
★★★☆☆

聴き手にまったく媚びない態度から生み出される底なしの深みと渋み、時代をリードする先端性とルーツに根ざした保守性が同居したサウンド、深読みすればいくらでもできる難解さ。ディランの音楽とはそういうものだと誰もが思っていたところに、こんな口当たりのいい「普通の」ポップ・ミュージックが届けられたら、それはとまどうだろう。この『Street Legal』のサウンドは、そのくらい明快でポップだ。

いや、聴き手を当惑させるのは、じつはサウンドのマイルドさやポップさ自体ではない。その、あまりの「普通さ」、「とっかかりのなさ」が、こだわりの男・ディランというイメージとケンカしてしまい、自分がいま何を聴いているのかよくわからなくなってしまう。この作品がもたらす当惑とは、そういう類のとまどいなのだと思う。

「とっかかりがない」とは書いたが、もちろんそれまでのディラン作品と比較してみれば、このアルバムのサウンドにもいくつかの特徴が見てとれる。まずはなんといってもゴスペル調の女性コーラス隊だ。ブルース方面ではない、こういうR&B的な黒さというのは、ここで初めて獲得されたスキルと言っていいだろう。また、このゴスペル調コーラスは、これ以降、特に『Shot Of Love』までの数作では主力の武器の一つとして用いられており、そういう意味でもこのアルバムが重要な転機となった作品であるという見方はできる。まあ別の言い方をすれば、そういう黒っぽさが大好物なリスナーにとっては「ディランはこの時期がいちばん好き」ということになるのだろうし、逆に、特にそういうわけではない僕のようなリスナーにしてみれば、さまざまなサウンドに挑戦してきたディランのバリエーションの一つにすぎず、点数も辛くなりがちだ。そういうバイアスがかかっていると思って読んでもらった方がいいかもしれない。

とはいえ、このアルバムではまだ南部指向的な「黒さ」はそれほど強くはない。そこが「とっかかりがない」と表現した所以でもあるのだが。

もう一つ、このアルバムで初めて導入された特徴的な要素が、スティーブ・ダグラスのサックスである。たとえばタワー・オブ・パワー的なブラスではなく、リード楽器としてのサックスがロックで使われる場合、もたらされるのは南部的な黒さではなく、フュージョン的な軽さやポップさであることが多い。例として適切かどうかわからないが、ぱっと頭に浮かんだ名前で言えば、ヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュース的というか。ともかく、そういう王道アメリカン・ポップ・ロックっぽいサウンドは、どんなにクオリティーが高くても、やっぱり「とっかかりがない」という表現をする以外ないと思うのだが、いかがだろうか?

楽曲のデキはとてもいい。メロディーはかつてないほど明快で、歌詞も比較的平易。聴くほどにじわじわ染みてくるというのは、逆に言えばインパクトが欠如していることの証明なのかもしれないが、それでも、たとえば「Is Your Love In Vain?」なんて、相当の名曲だ。プレスリーの「Can't Help Falling In Love」並みのスタンダードになっておかしくないと、本気で思うのだが。これだけでも、十分このアルバムを聴く価値はあると断言できる。

とここまで書いて、はたと思いついたことがある。そうか、もしかしたらディランがここでやろうとしたのは『Self Portrait』のようなことだったのかもしれないな。あるいは、『Self Portrait』で実現したかったのが、こういう明快で平易なサウンドだったと言うべきなのか。『Self Portrait』は、件の「Can't Help Falling In Love」をはじめカバーが大半を占め、また2枚組にしたこともあって、求心力のない散漫な作品になってしまったが、なるほど、楽曲をオリジナルで揃えたりサウンドを一色で塗り固めたりしてあれに統一感を持たせたら、こうなるということなのかもしれない。

「とっかかり」とは「過剰な部分」のことなのだと思う。残念ながら僕にはいまだこのアルバムに「過剰な部分」を発見することができていない。そして、たぶん僕はその「過剰な部分」の量で★の数を決めているのだ。楽曲も良く、サウンド的にもクオリティーの高いこのアルバムは、僕にとっては★4つに限りなく近いのだが、しかし永遠に★4つには届かない、★3つ止まりの作品となっている。でも、そういう普通さって、ある意味ではとても安心できるものではあるのだが。


At Budokan/Bob Dylan
(邦題『武道館』)
(1979)
★★☆☆☆

たぶん、40枚を超えるディランの全アルバム中、最大の問題作がこれだ。問題は何をもって「問題作」とするのか(ややこしい)なのだが、とにもかくにも問題作と言って間違いない。

まずこのライブ・アルバム、何が問題(まだ言うか)かといって、ものすごく評価する人もいれば、「まったく認めないね」という人もいて、一般的な評価がいまだまったく定まっていないというところが問題(しつこいね)だ。何となくだが4:6か3:7くらいで否定派が強いのではないかと思うが、でもそれってじつは僕の頭の中だけでとった統計にすぎず、要するに僕の個人的な評価の延長でしかないような気もする。

問題(これで最後です)は、肯定派の多くが「意外と悪くないよ」とかそういった評価の仕方ではなく、ディランの全作品の中でも相当上位にランクインするべき名作だと思っているところなのだ。そんなところへきて、「意外と好き」とか「悪く言う人がいるのはよくわかるけど、自分はわりと聴ける」なんて意見まで肯定派に入れてしまったらさあ大変、どっちが多いのかもはや誰にも断言なんてできなくなってしまう。いや本当は最初からできないのだが。

というか、これではちっとも具体的にどんな作品なのかわからないですよね。こんなふうに「この作品はアリかナシか」とか「どんな意図でこういうものを作ったのか」といった議論が起こることはディランにおいては珍しくないのだが、このアルバムはその代表選手のようなものなのだ。

発売当初、というか武道館でのライブが始まったその瞬間からリスナーたちがぶったまげたのは、そのほとんどロック的とは言えない(もちろんフォーク的でもカントリー的でもブルース的でもない)、ラスベガスのショーのような軽い音と、ともすれば安っぽい印象すら与えかねない大げさな歌謡曲的アレンジだった。まるで渡された譜面通りに演奏しているようなそのサウンドには疾走感やスリリングさは皆無。過去の名曲の数々をアレンジを変えて演奏するのはローリング・サンダー・レビューでもやっていたことで、何が違うのかちゃんと説明しろと言われると困るのだが、ともかく『Hard Rain』は最高にカッコよかったのに、この『At Budokan』での演奏はどれもただ変えることが目的のような気がして、「アレンジが変わった」という感想しか浮かんでこないのだ。

というのはすべて僕の個人的な感想で、「軽い音」は「重苦しさから解放された音」、「大げさなアレンジ」は「感動的なアレンジ」、「譜面通り」は「クオリティーの高い演奏」という言い方で絶賛する見方があるのだろうな、という思いも、つねに頭のどこかで渦を巻いている。もうこれは好みでしかない。

ただ一つ、ちょっとがんばって言ってみたいことがある。それは、ここまで新しい試みを、高い完成度で実行しているのだから、これはもうライブではなくオリジナル・アルバムとしてとらえるべきなんじゃないだろうか、ということだ。となると、アナログで2枚組、22曲というのは明らかにボリュームが大きすぎる。新曲がない(「この時点での未発表曲は『Street Legal』に入ることになる「Is Your Love In Vain?」のみ)というのもマイナスだ。新しいサウンド・コンセプトを試すなら、その方法論が生きるような楽曲を用意すべきだと思う。新曲ゼロでも新作的に聴ける『Hard Rain』という先例はあるが、ここでもそれを試すのはあまりにも二匹目のドジョウ狙いというか、怠慢じゃないだろうか?

よしんば新曲なし、過去の曲のアレンジ違いのみで攻めるにしても、この半分くらいにまで厳選されたトラックのみで構成されていたなら、かなり印象は違っていたかもしれない。というか、『Hard Rain』がまさにそう(全9曲)なのだ。

どんな偉大なアーティストの傑作アルバムだって、そのレコーディングのセッションすべてを収めて発売したりはしない。ミックス・ダウンや選曲まで含めての「作品」なのだ。そういう意味で、この『At Budokan』は編集前のアルバム、「傑作」になる(かどうかはまだわからないが)前の素材集でしかないのだ。

ふう。これでやっと自信を持って断言できるかな。そんなわけで、これは「作品」としては「失敗作」だと思う。ナイス・トライ。だが、失敗なのだ、これは。

Slow Train Coming(22nd)~Shot Of Love(24th) [ボブ・ディラン(Bob Dylan)]

一般的にはどうなのかわからないが、少なくとも僕はこの前の『At Budokan』までを「70年代までのディラン」、そしてここでとりあげる『Slow Train Coming』からを「80年代以降のディラン」(実際には『Slow Train Coming』は1979年8月の発売でギリギリ70年代なのだが)として、大きく2つに分けてとらえているふしがある。「ふしがある」なんてなんだか他人事のようだが。でも、たしかに「そこまで」と「そこから」では、たんなる音楽的な印象以上の「何か」が致命的に違っている気がする。乱暴な言い方をすれば、その2つのディランはまったく違うミュージシャンとして聴かれるべきだとすら思っている。

でもそれは、たぶんディランに限ったことではないのだとも思う。それは、ロックを含むポピュラー・ミュージック全体が直面した時代の変化なのだ。洗練と細分化と商業化は、あっという間にロックの可能性を掘り尽くし、方法論のカタログ化を押し進めてしまった。うまくは言えないが、鶏が先だった時代から、卵が先の時代へ、といった感じ。ともかくここからのディラン(というかほとんどすべてのミュージシャン)にとっての問題は、いかに新しいサウンドを生み出すかではなく、いかに既成のサウンドとうまく付き合っていくかへとシフトしていく。その視界に映る光景は、テキサスの荒野とニューヨークの摩天楼くらい違ってくる。音楽に限らず、ある特定の表現様式が成熟するというのはそういうことなのだ。良くも悪くも。

というわけで、『Slow Train Coming』から『Saved』、そして『Shot Of Love』へと続く、俗に言う「キリスト教3部作」である。そう一括りにされているのは、この時期のディラン自身が神への目覚め、キリスト教への改宗を明言していたこともあるが、たとえば歌詞が明らかにそういった傾向を帯びたり、サウンド的にもゴスペル形式のような南部志向を強めたりしていたからという理由も大きい。もちろん日本人である僕たちにはこの宗教的な問題が意味する微妙なところは伝わりにくいし、ましてや歌詞の面での変化を語れと言われても厳しいものはある。だが、そこに込められたメッセージ(歌詞だけではなく)がどれほど優れていようとも、出てきたものが音楽として優れていなければ意味はない。逆に言えば、真に深く優れたメッセージは、音楽自体をも優れたものにするはずだ。僕たちは、そうやって音楽から「メッセージ」を受け取っているはずなのだ。言うまでもなく1970年代以前も、そして1980年代以降も。

Slow Train Coming/Bob Dylan
(邦題『スロー・トレイン・カミング』)
(1979)
★★★★

とまあ、上ではぐだぐだと「ここからがニュー・ディランだと思うんだよね」みたいなことを大げさな筆致で書いているが、そんなことはこのアルバムのオープニングを飾る「Gotta Serve Somebody」のイントロを聴けば、10秒でわかることだったりする。何か新しいことが始まる予感が全身を包み、同時に、たとえばこれが『Nashville Skyline』のようにある特定の音楽ジャンルのコスプレのような行為ではなく、もっと深刻な、表面上のスタイルとは無関係な、後戻りのできない致命的なステップであることが直感的にわかり、胸が締めつけられるような気がしてくるのだ。少なくとも僕にとって、ディランのアルバムの中でこんな緊張感を受ける作品は他にはない。

その「表面上のスタイル」の詳細については他のサイトなどでも調べることはできるだろうし、だいたい先に述べた「最初の10秒」を聴けば、そのあたりだって一発で伝わるはずなのだが、それで終わらせるのもどうかと思うので、いちおう簡単な解説を。

南部R&Bサウンドの総本山、マッスル・ショールズ・スタジオで制作されたこのアルバムは、ディランがはじめて既成の(というか、特定の他者の署名入りの)サウンドに身を委ねた作品とされる。抑制のきいたクールなファンキーさをたたえたリズム、女性コーラス隊やホーン、プロデューサーでもあるバリー・ベケットのマイルドなオルガンとピアノ、どこをとっても上質な、一級品の南部的サウンドが実現されている。だがこれだけでは音楽的コスプレの域を出ない。このアルバムに唯一無二の存在感を与えているのは、マーク・ノップラーのギターなのだ。

イギリスのバンドであるダイアー・ストレイツは1978年にファースト・アルバムを発表、アメリカでは1年遅れの1979年にデビューしたばかりで、そのツアーを見てディランは起用を決めたらしい。そして、これが大当たりとなった。ノップラーのクリアでハイ・テンションなギターは、上品でマイルドなサウンドのアクセントとして十二分にその魅力を発揮し、このアルバムを他にかわりのきかない作品に仕上げる重要な役目を果たしている。というか、2曲目の「Precious Angel」なんて、ほとんど同年の1979年に発表されたダイアー・ストレイツのセカンド・アルバム『Communique』の1曲目である「Once Upon A Time In The West」そのまんまじゃないか、という長い説明口調のツッコミを入れたくなるくらい、その影響は大きい。僕はダイアー・ストレイツも大好きだが、本家(ってのもヘンかな)にはない、黒々としたノリの中で跳ね回るノップラーのギターというのは、それだけで一聴の価値があると思う。というか、ノップラー自身、歌い方などがディランの影響を受けていることは明らかだし、そればかりかディランは自分のアイドルだと公言しているくらいで、この組み合わせ、相性が悪いはずがないのだ。

問題の歌詞の面だが、たしかに全体的に神(というかキリスト)がテーマになっているようではある。が、語学力のせいもあるのかもしれないが、あくまでも多義的なレベルに感じられるし、愛や人生を大上段から扱った曲が多いような気がする、というくらいの印象にとどまっている。ただ、最後から2曲目の「Man Gave Names To All The Animals」で「Man gave names to all the animals in the beginning, in the beginning(人間はそもそもの最初に、すべての動物たちに名前を与えた)」としつこく歌うあたりや、アルバムの最後の「When He Returns」で、ピアノ伴奏だけで静かに、そして荘厳に神の復活について歌い上げるあたり、なんだか様子がおかしいというか、居心地の悪さは残る。これか、噂のアレは、という感じである。

歌詞ということで言えば、「Gotta Serve Somebody」の「Well it may be the devil or it may be the lord. But you're gonna have to serve somebody(それが悪魔だろうと神だろうと、とにかく人は誰かに使えなければいけない)」という非常に印象的な一節もまた、考えようによっては(というかモロに)そっち系なのかもしれない。しかし僕はいつもこの曲を聴くとき、違うことを考えている。たぶんこれは、70年代的なものの終わりを、そして80年代的なものの始まりを宣言している言葉なのだ。少なくとも、そのくらいの多義的な解釈を受け入れるだけの力がこの曲には、いやこのアルバムにはある。次の『Saved』とは違って。


Saved/Bob Dylan
(邦題『セイヴド』)
(1980)
★★☆☆☆

たとえばディランの曲のなかでフェイバリットは、と訊かれて『Highway 61 Revisited』の「Desolation Row」を挙げる人は多い。12分を超えるこの曲には間奏らしい間奏もなく、ディランは120行にもわたる歌詞を延々と歌い続けるのだが、そんな曲がなぜ好まれているのかというと、歌詞の内容ではなく、響きが素晴らしいからにほかならない。これは、ディランの音楽の素晴らしさを最も端的に説明できるの話の一つだと思う。なぜそんな話がここで必要だったのかというと、この『Saved』という作品に最も欠けているものこそ、そういった歌詞の力だと考えるからだ。

それが宗教的なことなのか、それとも何か他のことなのかはさしあたってどうでもいい。ともかく、ディランには何か語りたいことが、語っても語っても語り尽くせぬことがあり、それを歌詞にして、音楽に乗せて歌った。これまでのディランの曲の歌詞を「歌詞」と呼ぶならば、それは「歌詞」ではない。「歌詞」としての力を失った、ただの「詞」でしかない。それがどんなに正しいテーマについて書かれた、優れた「詞」であろうともだ。歌詞が耳に入ってこない、楽曲が無駄に長く感じる、演奏と歌のバランスが崩れている。僕がこの『Saved』に感じているそれらの不満は、たぶんすべてそういったところに根っこがある。

サウンド的には、前作に引き続きマッスル・ショールズ・スタジオでの録音、プロデューサーも同じジェリー・ウェクスラーとバリー・ベケットと、まるで同じものができて不思議はなさそうだが、じつは感触はずいぶん違っている。まず、マーク・ノップラーとドラムのピック・ウィザースという、ダイアー・ストレイツ組がいないことが大きい。このせいで、サウンドはそのクオリティーの高さは別として、個性という点でははるかに弱い、匿名性を帯びたものになってしまっている。で、そのサウンドの方向性はというと、ゴスペル色、スワンプ色をより強めたサザン・ロック的な傾向が加速しているのだが、なにしろこれをその匿名性の高い音でやられると、何というか、音楽的コスプレ感、物真似感が強くなってしまうのだ。

たぶんこのアルバムを好きになれるかどうかは、ほとんどタイトル曲の「Saved」をかっこいいと思えるかどうかの一点にかかっているのではないかと思う。僕の感想は、何の工夫もないスワンプの物真似、歌詞も唄も、ディランでなくてはならなかった必然性が伝わらず、これならレオン・ラッセルを聴いていた方がマシ、といったところだ。もちろん、レオン・ラッセルはちょっとアクが強すぎて好きではないが、この「Saved」や同じようなサウンドの5曲目「Solid Rock」はビンビンくる、という人がいても不思議はない……のかなあ。ちょっと自信ないが。

先にも少し触れたが、とはいえサウンドのクオリティー自体はなかなか高い。フォーク/カントリー的な要素が入ると田舎臭く感じる、根っからのハード・ロック好きの人ならば、他のディランの作品よりは入りやすいかもしれないが、でもそれなら他のアーティストのものを聴けばいいんじゃないかな、とも思う。ちなみにこの時期の「ゴスペル・ツアー」と題されたコンサート・ツアーはこの『Saved』のメンバーが中心で、途中で説教(!)が入ったりする宗教色の強さもあって賛否は分かれたが、音楽的には非常に高い評価を受けたツアーでもあった。レコードはもちろん、音源がほとんど出回っていないのが残念で、そのうちブートレッグ・シリーズで発掘されないかなあ、とひそかに期待しているのだが。

そうそう、この『Saved』、現在再発されているCDではジャケットがライブ・アルバムかと間違ってしまいそうな写真のものになっているが、もともとはここで紹介している、ヘビメタかプログレのアルバムのような気持ち悪い絵で、これがまたすこぶる評判が悪かった。まあディランのアルバムは総じてジャケットがヘボい傾向があるが、これはその中でも屈指の存在である。まあ見てやって(笑)。


Shot Of Love/Bob Dylan
(邦題『ショット・オブ・ラブ』)
(1981)
★★★☆☆

ディランのアルバムの中で「存在は地味だけどじつは意外にいい隠れた名作」大賞といえば『Street Legal』なわけだが、個人的には『Street Legal』は「地味な存在ながらじつは意外にいいんだけど、やっぱりよく聴くと地味なのには理由があって、結局のところ佳作の域は出ないで賞」止まりだったりする。「~で賞」なんていまどき町内会のイベントでもお目にかかれないって? いや、古くてすいません。

冗談はさておき、この『Shot Of Love』こそ、僕の個人的「存在は地味だけどじつは意外にいい隠れた名作」大賞だ。★4つあげちゃおうかどうしようかさんざん迷ったが、あと一歩、押しが足りないところもたしかにあるので、残念ながら3つ止まりに。『Street Legal』も3つにしたけど、あえて小数点以下を使って表現してみるなら、あっちは★3.5、この『Shot Of Love』が★3.8くらいかなあ。

ところでこのアルバム、「キリスト教3部作」の3つめとされているが、歌詞もサウンドも、宗教色はかなり薄い。つまるところ、この次の『Infidels』がユダヤ教に改宗して制作したアルバムということで話題を呼んだため、ってことはその直前のこのアルバムまではキリスト教だったってことでいいんじゃない?的な分け方にすぎないような気がする。そんな先入観や、どこのD級バンドかと思わせる信じがたいデザインのジャケットのせいで敬遠している人がいたら、それはもったいない話だと思う。本当に。

その立ち位置というか、評価のされ方が似ているということで先ほど『Street Legal』と比べたが、ついでにサウンドも比較してしまうと、すぐにあちらはポップだけどこちらはロック、という明快な解答が得られる。違うのは、たぶんサウンドに占めるギターの役割の違いだ。このアルバムは、バックはジム・ケルトナーらのウェスト・コーストの職人たちが務め、そこにダニー・コーチマーという硬質な触感を持ったギタリストを配することで、オトナのコンテンポラリーなギター・ロックを現出させることに成功している。チャット・プロットキンとのコラボではあるが、セルフ・プロデュースに近い作り方をしたのも、サウンドに余計な色が加わらないという意味で成功だと思う。地味な印象なのはそのためもあるのだが、でもこの乾いた感じのサウンドは、ディランによく合っている。

考えてみれば、マイク・ブルームフィールド、ロビー・ロバートソン、マーク・ノップラーと、ディランを生かすギタリストには、なんとなく共通点があるような気がする。隙間をうまく作れるというか、かけあいができるというか。ある意味、ダニー・コーチマーもまた、そんな系譜に含まれるギタリストなのではないだろうか。またディランも、そんなダニーのギターがよく生きるような曲を書いていると思う。「Watered-Down Love」なんて、ちょっと他のアルバムではお目にかかれないタイプの曲だ。

他にも、この数年間磨いてきたゴスペルっぽいセンスがついに音楽的な実を結んだともいえる「Shot Of Love」や「Property Of Jesus」のような好ナンバー、傑作『Blonde On Blonde』の「Sad Eyed Lady Of The Lowlands」を思わせる大作「Every Grain Of Sand」、リンゴ・スターやロン・ウッドら豪華なゲストが参加したこともありサウンド的にはちょっと浮いた感もあるが、それがかえってアルバムに華を添えたとも考えられるハート・ウォーミングな「Heart Of Mine」など、なかなかの佳曲が揃ったこのアルバム。小粒で、スケール感には欠けるかもしれないが、そのぶん味は凝縮され、内側には堅い芯のようなものの入った、梅干しのような作品だと思う。

Infidels(25th)~Real Live(26th) [ボブ・ディラン(Bob Dylan)]

「ディランはキリスト教から、今度はユダヤ教に改宗したらしい」という噂とともにリリースされた『Infidels』は、たしかに歌詞からキリスト礼賛的な匂いが消え、サウンド面においても近3作に共通していた南部風味の「縛り」のようなものがなくなり、自由で伸びやかな創造性をたたえた傑作に仕上がっていた。そしてそのことは同時に、ディランがまた新たなフェイズに入ったことを、先の読めない旅路に足を踏み出したことを示してもいた。ここではその『Infidels』と、翌年に行われたヨーロッパ・ツアーの模様を収めた『Real Live』を取り上げる。


Infidels/Bob Dylan
(邦題『インフィデル』)
(1983)
★★★★★

フォーク・ロックというジャンルを定義づけるとしたら、いったいどんな言葉がぴったりなんだろうか? というような考察は、じつはすでに『Bringing It All Back Home』の項で試みていて、まあとりあえずのところは「フォーク・ギターを中心に、ドラム、ベース、そしてエレクトリックのリード・ギターなどで構成されたサウンド」としておけばいいだろうと考えたのだが、そのフォーク・ロックというジャンルそのものを生み出した歴史的名作『Bringing It All Back Home』から18年、ディランはそんな表面的な定義を使い物にならなくするくらいにまで「フォーク・ロック」を深化させたアルバムを発表した。それが、僕にとっての『Infidels』という作品の本質だ。

このアルバムを形成しているサウンドを文章で説明すること自体は、難しいことではない。まずはレゲエ界最強のリズム・セクション、スライ・ダンバー&ロビー・シェイクスピアのすばらしく独創的なドラムとベース。そこにマーク・ノップラーとミック・テイラーが、と書くと、すわギンギンのギター・バトルか!?と警戒したくなるが、ノップラー自身がプロデュースを担当していることもあり、もちろんそういったハメを外すような事態には陥っていない。逆に、ストイックなまでに抑制され、計算し尽くされたソリッドなプレイが、リズム隊を横軸とするなら縦軸(べつにどっちがどっちでもいいんだけど)となって、極上の音空間を現出せしめている。アラン・クラークのキーボードはあくまでも脇役に徹し、無駄のないプレイでその空間のフレームを補強する。そして、そこにディランの伸びやかなボーカルとハーモニカが乗っていく。この伸びやかさは、明らかにかつてのディランにはなかった、何か新しいものだ。

楽器にも、そしてディランのボーカルにも、やはりかつてないほどのエコーがかけられていて、それ自体はいかにもこの時代(80年代)のサウンドだなあという感じなのだが、でも不思議と古くささを感じさせない。たぶんそれは、この過剰とも思えるエコー処理に、必然性が備わっているからなのだ。楽曲制作上も、ボーカリストとしても、そして何より精神的に伸び伸びと感受性の羽を広げているディランのその状態を、もっとも端的な形で表現できているのが、このエコーのきいたサウンドなのだと思う。

と、ここまで読んで、突っ込みたくはならないですか? さっき「この作品はフォーク・ロックだ」と言ったけど、ディランはフォーク・ギターを弾いていないの? と。

そうなんです、弾いていないんです。じつはこのアルバムのサウンドは、ほぼ先に列挙した音要素のみで出来上がった、ある意味で非常にシンプルでスカスカなものなのだ。いや、「弾いていない」というのはちょっと大げさで、「Jokerman」「Sweetheart Like You」「I And I」あたりでは、よーく聴くとバックでアコースティック・ギター(というかエレアコ?)が鳴っているのが聴こえる。いま手元に楽曲ごとの詳細なクレジットがないので、もしかしたら他にも弾いている曲があるのかもしれないが、でもいずれにせよ、それはサウンドを引っ張る弾き語り的な演奏としてではなく、あくまでもアンサンブルの中の隠し味的な要素として鳴っているにすぎない。つまりディランはこのアルバムで、ほとんどフォーク・ギターを弾いていないのだ。だがそれでも、僕にはここに収められたほとんどすべての曲において、ディランの弾くフォーク・ギターが聴こえてくるような気がするのだ。

どうしてなのかは、もはや言葉で説明することは難しい。このアルバムがフォーク・ロックの作品だからだ、という言い方しか、僕にはできない。実際にフォーク・ギターが鳴っているのかいないのかにかかわらず、僕にはその音が中心で鳴っているのが聴こえ、そしてだからこそ、この作品はフォーク・ロックなのだ。

僕には、ディランが「License To Kil」を、「Don't Fall Apart On Me Tonight」をギター一本で弾き語っているのが、圧倒的なリアリティーをもって聴こえてくる。アルバム中、もっともロックンロールしているといえる「Neighborhood Bully」ですら、たとえば『The Last Waltz』(ザ・バンドの解散コンサート)出演時にハード・ロックのようなアレンジで演奏された「Baby, Let Me Follow You Down」が、じつはファースト・アルバムでギター一本で弾き語っていた曲だったことを思い出させる。そうやって僕の頭の中だけで鳴っている音は、実際に耳から入ってくる音の見えない「核」のようなものなのだと思う。そして、その「核」のようなものの存在を、僕は信じている。というか、僕たちが聴いているのは、まさにその「核」なのだとすら思う。

表面上のサウンドがカントリーだろうがハード・ロックだろうがレゲエだろうがゴスペルだろうが、「核」をごまかすことはできない。そして、その作品が優れたものなのかそうでないのかを決めるのは、この「核」の強度に他ならない。そういう意味で、僕がディランのメインの「核」であると信じているフォーク・ロック的なスピリットをこれだけの強度で感じさせる『Infidels』という作品は、間違いなく傑作だと思う。


Real Live/Bob Dylan
(邦題『リアル・ライヴ』)
(1984)
★★☆☆☆

ディランの作品には賛否がまっぷたつ(というか賛3否7くらい)に分かれるものが珍しくないが、この『Real Live』もまたそんなアルバムだ。そういえば似たような立ち位置の『At Budokan』もまたライブ・アルバムだった。このあと1989年に出る『Dylan & The Dead』も賛2否8か、へたしたら賛1否9くらいの作品だし、こんなにもライブ・アルバムで安定した評価を得られないアーティストというのも珍しいんじゃないだろうか。だって、普通ライブ・アルバムといえば、その時期までのベスト・アルバム的な代表曲のオンパレードになることがほとんどだし、だからなかなか歴史的名作などという評価は得づらいにしても、少なくとも「失敗作」なんて烙印が押されることはまずないからだ。だがディランは、そんな危ない橋ばかり渡っている。だからこそ『Hard Rain』なんていう、スタジオ作ではちょっと登場しにくいような、ライブ・アルバムならではの孤高の傑作を生み出すことができたんだろうけど。

では、この『Real Live』でディランはどんな「危ない橋」を渡っているのだろうか、という視点で見ていくと、そういう人は意外とまともなサウンドに拍子抜けすることになるだろう。「そういう人」って、つまり僕のことなのだが。そして、たぶんその「拍子抜け」のぶんだけ、僕のこのアルバムに対する評価は低くなっている。

直近のスタジオ作『Infidels』制作メンバーからギターのミック・テイラーが参加したこのツアーは、しかし他のメンバーは入れ替わっており、『Infidels』とはまた別もののサウンドを狙っていることがわかる。キーボードはイアン・マクレガン。とくれば、その「狙い」というのはストーンズ/フェイセズ的なロックンロール? と思うでしょう。お見事、まさにそのとおり。でも問題は、「そのとおり」とか「そのまんま」というものは、えてして「つまらない」や「退屈」と紙一重であるというところにあるのだ。

このアルバムで展開されているのは、ストレートでシンプルでオーソドックスなロックンロール、それ以上でも以下でもない。『Infidels』からは「I And I」「License To Kil」の2曲がプレイされているが、あとは「Highway 61 Revisited」「Maggie's Farm」といった代表曲のロックンロール・バージョンだ。リズム隊のプレイは堅実だが平凡、イアン・マクレガンも頑張ってはいるが、サウンドに強烈なカラーを加えるまでには至っていない。さすがにミック・テイラーのギターは、エフェクトの強くかかった音色といい、スマートなフレージングといい、独特のものを聴かせているが、そこまで。全体に、ストーンズほどの黒っぽさもなければ、フェイセズのようなルーズな格好良さもないとくれば、比較的良質なロックンロールという以外に形容のしようがない。

もっと問題なのは、全10曲中、3曲をアコースティック・パートが占めているところで、ここでディランはギター一本の弾き語りで「It Ain't Me, Babe」「Tangled Up In Blue」「Girl From The North Country」を歌っている。この3曲(とくに後の2曲)こそ、このメンバーでしかできないようなロックンロール・アレンジを施し、聴く者(僕のことだけど)に新鮮な驚きを与えてほしかった。「拍子抜け」させないでほしかったと強く思う。

そんなわけで、僕のこのアルバムに対する評価は、単体のデキ云々よりもその「立ち位置」の中途半端さで決まってしまうことになる。試しにいま、もしもディランがその長いキャリアの中でライブ・アルバムというものをこれ1枚しか出していなかったら、と仮定してみたが、その場合、このアルバムは「立ち位置」的にもサウンド的にもぎりぎり及第点、★3つはあるかなあ、という気はする。先に述べたミック・テイラーのギターや、「It Ain't Me, Babe」での聴衆とのかけあい(これこそ賛否の分かれるところだけど)など、聴きどころもないわけではない。だが、そもそもディランが『Royal Albert Hall』も『Before The Flood』も『Hard Rain』も通過していないという設定自体、ディランの魅力を半減させることにもなりそうで、ちょっと無理があるかもしれないのだが。

ちなみにこのアルバムに対する「賛否」が「賛」の人は、『At Budokan』も積極的に評価する人が多いような印象がある。ディランの全曲解説本『ディランを聴け!!』の中山康樹氏なんかはそっちのタイプのようで、人の好みがいろいろなのは当然として、こういうのは不思議な現象だなあと思う。

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Empire Burlesque(27th) ~ Down In The Groove(29th) [ボブ・ディラン(Bob Dylan)]

宗教的、音楽的、さまざまな紆余曲折の末に名盤『Infidels』を生み出した「80年代ディラン」の後半戦。しかし、ある種の幸福な軽薄さを最大の特徴とするこの80年代後半という時代のカラーは、はっきり言ってディランとは合っていなかった。この時期、自分の活動とは無関係に進行していく「時代」ってやつとの折り合いのつかなさに、ディランが苛立ち、とてつもない無力感を感じていたことは、例えば『ボブ・ディラン自伝』を読むと痛いほど伝わってくる。ここで僕たちが本当に聴くべきなのは、そこに刻まれたサウンドそのものではなく、むしろ何を刻んでいいかわからず、戸惑い、苦闘し、時には(たぶん)諦めかけもした、その精神の軌跡の方なのかもしれない。


Empire Burlesque/Bob Dylan
(邦題『エンパイア・バーレスク』)
(1985)
★★★☆☆

1985年に世界的に大ヒットした「We Are The World」という曲のことを、もしかしてそれ以降に生まれた人などはあまりよく知らないのだろうか? 簡単に言えば「貧困に悩むアフリカを音楽で救おう」という主旨で、多くのトップ・アーティストが協力し合って1曲を作り上げる企画である。まあ、そういうチャリティー的なプロジェクト自体はいつの時代も見かけるわけだが、そのバカげた規模の大きさと、思慮深さのかけらもない能天気な善意の発露のしかたはいかにも80年代的で、あの「感じ」だけは当時を知るものにしか理解も肯定もできないもののような気がする。60年代ウッドストックの「できないかもしれないけどやっちゃえ!」的な青臭い冒険主義とも、あるいはすでに成功したアーティストによる余技・余興とも違う、敵が際限なく巨大になっていく「少年ジャンプ」的なワクワク感に支えられた明るさが、そこにはあった。

僕はそのとき、16歳から17歳になろうとしている高校2年生だった。そしてたしか、初めてディランを聴いたのが、この「We Are The World」だった。スティーヴィー・ワンダーやブルース・スプリングスティーン、スティーブ・ペリー、ダリル・ホール、ヒューイ・ルイス……当時のアメリカ音楽界のスターたちが、ライオネル・リッチーとマイケル・ジャクソンが作り、クインシー・ジョーンズがプロデュースしたこの曲をリレー形式で歌い継いでいく。2番が終わり、ブリッジのバースが歌われたあと、三たびやってきたサビに登場したのが、ボブ・ディランだった。正統的な歌唱法とはどこか違う不思議な声の出し方も印象的だったが、一人だけオリジナルのメロディーを無視したかのような調子っぱずれの音程で歌う様子は、すさまじい存在感を伴って僕の頭の中に刻まれた。それにしても、あれからもう24年も経ったのか……。

前置きが長くなったが、『Empire Burlesque』はその「We Are The World」の直後に発表された、『Infidels』以来約1年半ぶりとなるオリジナル・アルバムだ。その音は、今聴くとびっくりするほど「80年代洋楽サウンド」的で、それ以上でも、以下でもない。シンセ・ドラム、シンセサイザー、エコー、耳当たりのいいポップなメロディー、没個性的だが洗練された、逆にいえば洗練されているが没個性的な演奏とミックス。それは僕の中に、強烈なノスタルジーを呼び起こす。当時のヒット・チャートを賑わせていた曲を聴いたときと同じ、メランコリックな甘美さに包まれる。たぶん、これが「世代」というやつなのだろう。僕の中の「冷静な判断力」はこれを★2つにとどめようとするのだが、結果的には「ギリギリで」という誰に対してだかよくわからない言い訳とともに3つ、ついている。いずれにせよ、ノスタルジーと戦っているやつの判断ほどアテにならないものはない。ある意味で、自分以外の他人にとっての★がいくつになるのか、これほど想像のつかないアルバムはない。

『Infidels』にあったフォーク・ロック的な「芯」のようなものは、ここでは見当たらないか、もしかしたら意図的に引っ込められている。1曲目の「Tight Connection To My Heart」の最初の数秒を聴けば、そのことはすぐにわかる。マイルドなファンキーさを湛えたその曲は、しかし例えば『Slow Train Coming』の「Gotta Serve Somebody」のような緊張感とは無縁だ。だって、それが80年代後半という「時代」だったのだ。

このアルバム中で、最も過激に「80年代洋楽」的なのが「When The Night Comes Falling From The Sky」だろう。どこか現代(じゃないけど)版「All Along The Watchtower」とでも呼びたくなるこの曲のサウンドはどこまでもチープで、全力で当時の最先端サウンドを追いかけている「痛さ」に満ちており、だからこそ、その古臭さは逆説的に生々しく、僕の胸を詰まらせる。



Knocked Out Loaded/Bob Dylan
(邦題『ノックト・アウト・ローデッド』)
(1986)
★★☆☆☆

『Empire Burlesque』のあと、ディランはまずアナログ5枚組のベスト『Biograph』を発表している。ベスト盤なのでここでは詳しい紹介は割愛するが、その集大成的なボリュームもさることながら、いわゆる「通」好みの選曲でいて、入門編としても文句のない仕上がりという、なかなかの好アイテムである。この時期までのディランは完璧に網羅されているといっていいばかりか、『Shot Of Love』のアウトテイクでなぜかボツになっていた名曲「Caribbean Wind」が収録されているなど、聴きどころは多い。

で、1986年春にはトム・ペティ・アンド・ザ・ハートブレイカーズとジョイントでツアーを回ったディラン。この模様は『Hard to Handle』というビデオで発売されているが、アルバムとしては発表されていない。なのでここでは詳しい紹介はまたまた割愛するが、これがまたなかなかタイトでストレートな、気持ちのいいライブなのだ。ディラン本人は自伝で、すぐに退屈になってしまい、途中でツアーやめたくなった、というようなことを言っており、だからいまだにDVDになっていないのかとも思うが、いずれにせよ、そのツアーの直後に発表されたのが、この『Knocked Out Loaded』だった。

先に言ってしまうと、このアルバム、駄作という評価が一般的で、積極的に擁護する意見を見かけたことはほとんどない。逆に言えば、積極的に貶める言葉も聞かれず、要するにあまり触れられることのない作品である。

サウンドや演奏的には、本当はもう少しレイド・バックしたいのに、80年代的な軽さとシャープさにからめとられてしまい、抜け出せないまま終わった感がある。落としどころというか、寄せる方向が見えず、ただやってみただけ、というか。そうやって消極的に獲得された平易さ、ポップさという意味では、ちょっとだけ1978年の『Street Legal』を思い起こさせるところもある。

その『Street Legal』との違いとなると、これはもう、楽曲の弱さに尽きるだろう。全8曲中、完全自作は2曲、トム・ペティなどとの共作が3曲、ハーマン・パーカー・Jr.作とクリス・クリストファーソン作が各1曲、原曲がよくわからない、「Arranged by B.Dylan」とあるだけの曲が1曲。曲作りに情熱が注がれていないか、または注ぎ方が功を奏していないか、ともかく印象に残らない曲が多い。こうなると、サウンドもサウンドだけに、駄作の烙印は免れなくなってしまうというものだ。

ただ、いくつか積極的トライはなされている。「Brownsville Girl」は脚本家のサム・シェパードとの共作で、11分という長さの淡々としたナンバー。いやたぶん、最初は淡々としていて、徐々に盛り上げて、という「スケールの大きさ」を狙っているのだろうが、大げさなアレンジだとは感じられても、その意図はうまく反映されていない。逆に「Arranged by B.Dylan」とクレジットされた「Precious Memories」は、マンドリンやスティール・ドラムが涼しげな、レゲエ風というかカリプソ風の陽気なナンバーで、唐突さにさえ戸惑わなければ、なかなかの印象的なトラックだ。いや、唐突であるぶん、強い印象を与える、というべきか。

いずれにせよ、この時期のディランが曲作りにおいて高いモチベーションを保てていなかったことは、自伝などからも明らかだ。むしろ興味を覚えるべきは、そんな状況下でもコンスタントに(そして、そんな状況下であることを隠そうともしない作品を)発表し続ける、ボブ・ディランというミュージシャンの職業倫理についてなのかもしれない。それは、僕たちの知っている薄っぺらなミュージシャン像、アーティスト像とは、何かが根本的に違っているような気がしてならない。



Down In The Groove/Bob Dylan
(邦題『ダウン・イン・ザ・グルーヴ』)
(1988)
☆☆☆☆

一応、位置づけ的にはれっきとしたオリジナル・アルバムだが、なんだかアウトテイクを寄せ集めたような散漫な印象のアルバム。というか、実際に「Death Is Not The End」は『Infidels』のアウトテイクだし、他にも映画『ハート・オブ・ファイアー』のサントラとして提供した曲も収められている。完全な自作曲はその2曲のみで、あとはグレイトフル・デッドのロバート・ハンターとの共作が2曲。それ以外はカバーやトラッドのアレンジ、他者からの提供など。曲ごとに参加ミュージシャンはバラバラで、おまけにどれも演奏クオリティは決して高くなく、いかにも練習テイクっぽいものを無理やり体裁を整えた感じのものも多い。当然、サウンド的な一貫性は皆無。名作ドラマ『北の国から』に「誠意って、何かね」という名台詞があるが、菅原文太でなくともつい「アルバムって、何かね」と問いたくなる、そんなアルバムだ。

1973年に出た『Dylan』は、アサイラムに移籍するディランへの嫌がらせ的に、コロンビア側が勝手に出した正真正銘の寄せ集めアルバムだった。散漫さという点ではなんとなくそれに似た匂いはあるが、それよりはもう少し積極的な意味で、曲単位で好みがハマる人はいるかもしれない。先の「Death Is Not The End」ではマーク・ノップラーの渋いギターが聴けるし、ロン・ウッド、エリック・クラプトン、ミッチェル・フルームら豪華メンバーが参加した「Had A Dream About You, Baby」、ドゥー・ワップ風の「Sally Sue Brown」やボビー・キングの低音が心地よいゴスペル風の「Ninety Miles An Hour (Down A Dead End Street)」など、寄せ集めならではのデタラメさを楽しむ手はあるかも。個人的には、いかにもデッドライクな「Silvio」は以前から好きな曲だ。

だが残念なことに、「曲単位でちょっと好みが合う」ものを聴くために、僕はディランを聴いてはいない。その「残念」さは、たぶん僕の側に原因があるんだろうけど。

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