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Desire(18th)~Hard Rain(19th) [ボブ・ディラン(Bob Dylan)]

作った本人が「どうしてこんな暗い歌をそれほど多くの人が好んで聴くのかわからない」と言ってしまうほど内省的な『Blood On The Tracks』後、ディランは「書くべきことを何も持っていなくて、レコードを作る気などまったくない」状態に陥ったという。まあ、そりゃそうだろうな、と思う。あれだけの名作を発表したあとなんだから、1年か2年くらい充電のために休養したりしても、ぜんぜん不自然じゃないと思う。が、しかしディランの凄いところはそれをしないところなのだ。

自分の内から「何か」が溢れ出るのを待てないのなら、外から刺激を与えてやればいい。この時期、ニューヨークのグリニッジ・ビレッジでの生活で出会ったさまざまなアーティストたちからの刺激は、ディランにとって格好のエネルギー源となったようで、1975年夏にはもう新たな人脈を中心にアルバム『Desire』のためのセッションを始めている(前作のレコーディングを終えたのが1975年1月なのだから、それからわずか半年後だ)。秋には、無実の罪で投獄されていた元ボクサーのハリケーン・カーター支援のための曲「Hurricane」を発表し、さらにはアルバムの制作メンバーを中心とした仲間と、企画的にも音楽内容的にも出たとこ勝負を絵に描いたような「ローリング・サンダー・レビュー」のツアーをスタートさせている。この模様はライブ・アルバム『Hard Rain』に収められている。

外からのエネルギーに、それを超えるような、ほとんど理不尽なまでの量のエネルギーで応えたこの時期のディラン。その激しさと特異な音楽性は、ディランの全キャリアの中でも他に似たもののない、唯一無二のものである。特に『Hard Rain』は、個人的にもディランの全作品でベスト3に入れたい傑作中の傑作だと思っている。


Desire/Bob Dylan
(邦題『欲望』)
(1976)
★★★★

人は誰も、内部から湧き出るもののみでは生きられない。外部からの刺激がなければ、その人は赤ん坊のままである。ディランにしたって例外ではなく、ウディー・ガスリーをはじめとしたトラッドやラジオから流れるアメリカン・ミュージックという刺激抜きに、この偉大なミュージシャンが世に出ることはなかったと断言できる。

「外部からの刺激」という点では、ザ・バンドとのコラボや、80年代以降のマーク・ノップラーやダニエル・ラノワといったプロデューサーとの共同作業がわかりやすい例としてすぐに思い浮かぶかもしれない。だが、前者はある意味で魂の兄弟のような存在として互いに惹かれあった結果としてのコラボであり、純粋な異物としての「外部からの刺激」ではなかった。また後者は、役割分担がはっきりしているぶん、その刺激へのディランの呼応の仕方にも限界がある。それはあくまでも音楽制作上の技術的な「刺激」であり、魂への「刺激」ではなかった。

そう考えると、この『Desire』から『Hard Rain』の時期の特異性がはっきりする。西海岸のイーグルスが「Hotel California」で「夢の終わり」を歌うのが1976年、ロンドンでセックス・ピストルズが衝撃的デビューを飾るのが1977年。ニューヨークにも当然、パンク・ロックが芽吹きはじめており、たとえばディランもビレッジのクラブでパティ・スミスのライブを観たりしていたらしい。そんな空気に刺激されたディランが、その刺激を自分の中で熟成させる間も惜しむかのように、「身体で」反応して作ったのがこの2枚のアルバムなのだ。ディランほどの大物ならば、パンク・ムーブメントの行く末をもう少し見守り、自分に使える武器を吟味した後に、それを使うということもできたはずだ。しかしそれをせず、自ら率先してムーブメントに呼応(繰り返すが「吸収」ではない。あくまでもストレートな「呼応」であり即物的な「反応」だ)したその軽率さこそ、時代を動かす超一流アーティストのみが持ちうる素養なのではないだろうか?

……と書いてくると、まるでディランがいわゆるパンクをやってるみたいだが、そういうことを言っているわけではない。たしかに、バックのミュージシャンの中心人物であるベースのロブ・ストーナーは、無名ながらビレッジのクラブ・シーンで活躍していた、ある種ラモーンズ的な(?)ロックンロールを演奏するバンドのメンバーだし、ストーナーの紹介で集まった他のミュージシャンたちにしても、その奔放なプレイは、ルーツ・ミュージックの束縛から自由な新しい世代のセンスを強く感じさせるものではある。特にライブ・アルバムの『Hard Rain』の方にはそうした色合いが強いが、しかしここで実現されているのは、決して後にいわゆるパンクと名付けられるようなものとイコールで結ばれる音楽ではない。

この『Desire』のサウンドを一言で表すならば「テンションの高い叙情性」といったところではないだろうか。具体的にサウンドの鍵を握るのは、バイオリンのスカーレット・リベラ、そしてバックというよりはデュエットという感じで全面的にコーラスをつけているエミルー・ハリスという、女性二人だ。スカーレット・リベラは、ビレッジの路上で演奏しているところをディランにスカウトされたミュージシャンで、アルバムでは哀愁漂うジプシー風のバイオリンをこれでもかと弾きまくっている。また、フォーク/カントリー畑のシンガーであるエミルー・ハリスは、たとえばジョーン・バエズなどとはまた違った、清涼感あふれる、無垢な気高さを感じさせる声で、全体に透明な厚み(矛盾しているようだが、しかしこうとしか表現できない)を与えている。この2つの要素があまりにもアルバム全体をしっかりと覆っているせいで、サウンド的には一本調子な感もあるのだが、楽曲のバラエティーと、ある意味、歌謡曲的とすら言えるメロディアスさがそれを補い、なお強烈な印象を残している。大げさなドラマチックさでハリケーン・カーターの無実を切々と訴える「Hurricane」、中近東風メロディーでエジプトの女神を歌った「Isis」、フラメンコっぽいギターが印象的な「One More Cup Of Coffee」、テックス・メックスのムード漂う「Romance In Durango」、アフリカ的エスニック風味の「Mozambique」など、国籍不明テイストの楽曲が次から次へと登場して飽きさせない。おそらくはスカーレット・リベラのバイオリンにインスパイアされて作られた曲が多いのだろうが、そういった異国情緒を消化する間もなく排泄しているようなこのストレートさが、一度聴いたら頭から離れないようなわかりやすい叙情性を生んでいるのだろう。

深みや多義性という点では他のアルバムに一歩譲るかもしれないが、パワフルなポップさという点ではディランの全作品でもナンバーワンと言えるのではないだろうか。セールス的にも大成功を収めたアルバムだ。個人的には、とても日本人好みな作品のような気がしている。たとえば、ラルクとかグレイとか好きな人がディランを聴きはじめようとするときにはぴったりというか。

……って、どんだけ針の穴を通すようなレア・ケースだよって話ですね(笑)。


Hard Rain/Bob Dylan
(邦題『激しい雨』)
(1976)
★★★★★

ドサまわり、ルーズ、ジプシー一座、ミンストレル・ショウ、ぶちまけ、予定調和の破壊、etc……。なぜかこのアルバムを語るとき、人はこういった感じの、単語の羅列という手法を用いたがる。理屈を説いていくのではなく感性に訴えかける手法。要素の積み上げで全体像を表出させるのではなく、多面体をさまざまな角度から眺めていくような並列的表現。つまり散文的ではなく、詩的。こうした語り口で語りたくなるということが、いやそれ以前に、その素晴らしさを誰か他人に伝えたくてしかたなくなるということ自体が、この作品の最大の特徴なのではないだろうか?

とはいえ、それだけではレビューとしてははなはだ具体性を欠くので、もう少し何か言ってみよう。

作品の魅力は、いちばん最初に例として羅列した単語が、はからずもほぼ言い表しているだろう。とにかく「ロック」のカッコよさをいったん形而上的に抽出し、それをあらためて形而下のサウンド(というか、もっと広い意味でのパフォーマンス)に落とし込むことができるとしたら、きっと出てくるのはこういうものなのではないだろうか。カントリーだとかヘビー・メタルだとかパンクだとか細かいジャンルはいいから、ロックが好きならとにかく聴いてみな、絶対シビれるから。他人にそういう言い方で薦めたくなる作品なんて、そうあるものではない。

よく知られているように、このアルバムに収められているのはディランが1975年から76年にかけて行った「ローリング・サンダー・レビュー」という名のツアーでの演奏を収めたものだ。一般的には1975年のいわゆる「第一期」の方がテンションが高いということで評判がよく、76年の「第二期」はややダレているというような話を聞く。この『Hard Rain』は第二期のもので、第一期の音は長らく海賊版でしか聴けなかったが、2002年についに『The Bootleg Series Vol.5』として正規盤が出た。で、これはあくまでもそれらを聴き比べた感想だが、少なくともこの2枚のアルバムに関しては、言われているような差を感じることはない。どちらが上で、どちらがダメということはない。本当に。おかしな評判を真に受けて、片方しか聴かないということがあったとしたら、それは不幸としか言いようがないと思う。

『The Bootleg Series Vol.5』についての詳細はその項に記すが、つまるところこの2枚は、同じツアーを音源とした作品なのだが、まったく性格の違う作品として聴くべきなんだと思う。具体的には、『Hard Rain』はオリジナル・アルバムとして、そして『The Bootleg Series Vol.5』はライブ・アルバムとしてとらえるのがいちばん正しいような気がしている。

もしかしたら、第二期のツアーはコンサートとしては本当にアラの多いものだったのかもしれない。それは今となっては確かめようがない。だが『Hard Rain』に収められたパフォーマンスは、捨て曲など一切ない、本当に見事なものばかりだ。収録曲が少ないこともよかったのだろうし、並べ方もベストだ。ものすごく乱暴な例えをするなら、解散間際のビートルズがバンドとしては壊滅的に雰囲気が悪化しており、とても協力して何かを作るような状態ではなかったにもかかわらず、『Abbey Road』という素晴らしい作品が生み出されたのに近い感じがしている。

ちなみに楽曲はすべて発表済みのもので新曲はないが、すべて新曲として聴いて問題なし。それくらいアレンジが違う。というか、「ディランはライブでは自分の曲をまったく変えて演奏する」伝説を作ったのがこのアルバムだったりするのだから。

一曲、一曲については、あちこちでいろんな人が熱く語っているだろうから割愛する。というか、全部素晴らしくて、語りたくなるトラックばかりなのだ。中でも個人的にいちばん好きなのは「Shelter From The Storm」。もうずっとこの曲だけ聴いていたくなる、名演中の名演だと思う。2、3時間くらいなら余裕で大丈夫。歌詞が何百番分必要なんだよって感じだけど。

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