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ボブ・ディラン(Bob Dylan) ブログトップ
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Bob Dylan(1st) ~ Another Side of Bob Dylan(4th) [ボブ・ディラン(Bob Dylan)]

デビュー・アルバムから4枚目まで。一応ここまでが、いわゆるバンド・サウンドを導入する前、アコースティック・ギターとハーモニカを中心に録音されている純粋な「フォーク期」と呼んでいいだろうと考え、ひとまとめにしてみた。


Bob Dylan/Bob Dylan
(邦題『ボブ・ディラン』)
(1962)
☆☆☆☆

このデビュー・アルバムにおける自作曲は「Talkin' New York」「Song For Woody」の2曲のみで、あとはトラッド・フォークやブルースのカバーばかりだ。スタイルは尊敬する放浪のフォーク詩人ウディー・ガスリーを真似たトーキング・ブルース。ギターを掻き鳴らしながら時には呟くように、時には叫ぶように歌い、元気よくハーモニカを吹きまくる。ここでの聴きどころはその若さと、そして歌もギターもハーモニカも、その後のディランの一種独特の「ルーズな」スタイルからすると、驚くほど上手いというところだろう。基礎がしっかりしているからこそ崩すことができたんだなあ、なんてことをつい考えてしまうが、でもそういう感想ばかりで、肝心の音楽に関してはたいした感想が浮かんでこないのも事実だ。たぶんそれは、ここで繰り広げられている音楽がまだ、ある特定のジャンルに簡単に分類できてしまう、とてもローカルなものにとどまっているからなのだと思う。とはいえ、ディランの「フォークな」部分が好きな人には、この若々しさあふれる出発点はとても興味深く聴けるものなのかもしれないが。


The Freewheelin' Bob Dylan/Bob Dylan
(邦題『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』)
(1963)
★★★☆☆

ファーストから一転、このセカンド・アルバムは、ほとんどオリジナル曲で構成されている。それも「Blowin' In The Wind」をはじめとした珠玉の名曲揃いで、ディランのフォーク期の傑作として推す人が多いのも頷ける。でも、個人的には★3つとした。理由は、その名曲たちのほとんどが、後にライブ等で演奏されたバージョンの方が明らかに上だと思うからだ。例えば、「Blowin' In The Wind」はザ・バンドとやったときの怒りを叩きつけるような激しいアレンジの方が断然いい。「A Hard Rain's A-Gonna Fall」はバングラデシュ・コンサートのバージョンの凄さと比べるとどうしても霞んでしまうし、「Don’t Think Twice, It's All Right」に至っては、『At Budokan』のレゲエ調のアレンジの方が好きなのだ。よく知られているように、ディランの音楽の魅力の一つは、同じ曲でもコンセプトを変えたアレンジで別の曲のように聴かせてしまうところにある。そういう意味で、僕にとってこのアルバムは、好きな曲のオリジナル・バージョンがたくさん収められているアルバムという以上の積極的な価値は、あまりないというわけだ。

とはいえ、その唄と演奏のレベルの高さは認めざるをえない。落ち着いた歌いっぷりはとても20歳そこそこの若者のものとは思えず、ファースト・アルバムからの急激な成長を伺わせる。この後のディランのようなうるさいサウンドはあまり好きではないという純フォーク好みの人にとっては、間違いなく歴史的傑作と言えるだろう。

ちなみにこのアルバムで僕が一番好きなのは「Girl From The North Country」である。その後、ライブやセルフ・カバーなどあちこちで聴くことができる名曲だが、ここに収められた叙情あふれる唄と演奏を超えて胸に迫ってくるものはないと思う。


The Times They Are A-Changin'/Bob Dylan
(邦題『時代は変る』)
(1964)
★★★★

サード・アルバムは、初期ディランの中では最もプロテスト色の強い一作である。プロテスト色が強いというのは、つまり歌詞がものすごく具体的なテーマについて書かれているということだ。公民権運動、ベトナム戦争といったそのテーマ自体は今となっては古くさいし、ディラン自身、次の『Another Side of Bob Dylan』からはそういった公的なテーマで歌うことをやめ、私的なテーマを掘り下げて普遍的なものとするような曲作りにトライしはじめている。にも関わらず、このアルバムにはそうした「古さ」を超えた美的価値が詰まっている。ギター一本で「何か」を表現することを突き詰めた末に現れた、究極のスタイルがここにはあり、そしてそれこそが聴く者の魂を鷲づかみにして離さないのだ。その「何か」が多少古いものであろうが、そんなことはお構いなしに。

ここに収められた演奏のすばらしさを文字で伝えることは難しい。構成要素があまりにも少なく、そのシンプルさゆえに途方に暮れてしまうのだ。あえて言うならば、ここではギターを弾き、それに乗せて曲を歌うという行為とは、同じようでいてまったく異なることが行われているような気がする。歌(メロディーと歌詞)とギターとが完全に一体となって、完璧に自在な表現を実現しているのだ。全体としては静かなトーンの中で繰り広げられるその営みは、まるで寄せては返す波のように聴き飽きることはない。ここまでギター一本でやってしまったら、次にディランがやることは一つしかないとすら思わせられる。もちろんその一つとは、バンドによる演奏なのだが。

表現としてのスタイルと曲とがあまりにも合致しすぎているせいか、このアルバムの曲が後にロックの編成でアレンジされて演奏されることは比較的少ない。それゆえ、地味な曲が多いようなイメージもあるが、いやいやどうして、じつは名曲揃いである。表題曲や「The Lonsome Death Of Hattie Carroll」のような淡々としたうねりを持つ曲もいいが、より凄みを感じられるのは「With God On Our Side」のような曲だと思う。7分を超える大作だが、ほとんど同じメロディーを繰り返しているだけなのに、いつまでも聴いていたくなってしまう。僕自身は無宗教な人間だが、ある人の「信者」になってその言葉を聞くというのは、こういう状態なのだろうかとすら思う。ともかく、初期の中で、いまでも時々聴きたくなる唯一のアルバムだ。


Another Side of Bob Dylan/Bob Dylan
(邦題『アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン』)
(1964)
★★★☆☆

4枚目は、フォークからフォーク・ロックへというサウンドの面でも、それからプロテストからプライヴェートへという曲作りの面でも、いろいろな意味で過渡期的な作品である。

サウンド的には完全にフォークなのに、ここでのディランの歌唱とギターは明らかにドラムとベースを求めている。姿勢はロックだが、サウンドはフォーク。要するに不完全なロック、サウンドが追いついていないロックということなのだが、逆の見方をすれば、フォーク・ギター一本でロックを感じさせる「ぶっとんだ」ディランが聴けるという考え方もある。どっちが正解ということではない。それが「音楽観の相違」というやつなのだろう。そして僕は、前者なのである。

そんなサウンドにもかかわらず、このアルバムが「フォーク・ロックの夜明け」と呼ばれるのは、前述したディランの「ノリ」だけが原因ではない。バーズやタートルズなどのバンドが、ここから多くの曲を(12曲中5曲も!)カバーし、それらがフォーク・ロックの名曲として名を残しているからというのが大きい。「My Back Pages」などはバーズのバージョンが有名で、また出来もいいのだが、そのぶんオリジナルは「未完成の原曲」といった印象を免れない。損な話(?)である。そんなわけで、セカンドの『The Freewheelin' Bob Dylan』の評価を下げたのと同じように、ここでは評価を★3つ止まりとする。

どうもなんだか「過渡期的」というのは良くないことのような話になってしまったが、決してそういうつもりではない。本当に中途半端な作品だと思ったら★2つや1つにするところだ。実際、「It Ain't Me, Babe」や「To Ramona」などは、ここでしか聴けない、この時期のディランならではの名曲だと思う。本当に。

ちなみにこのアルバムは1964年6月9日に、しった1日でレコーディングされたそうである。マイルス・デイビスの有名な「マラソン・セッション」のような話だが、それにしても、これだけ濃密で大きな意味を持つ「過渡期」を、たった1日で走り過ぎていったディランのそのストライドの大きさと、あの時代の変化のスピードの速さには呆れるしかない。

Bringing It All Back Home(5th) ~ Blonde On Blonde(7th) [ボブ・ディラン(Bob Dylan)]

1960年代半ばの、いわゆるフォークからロックへの転換期の3枚。特に後半の2枚はいずれも神がかった名作で、もしディランのキャリアにおけるピークを一つだけ定めるとしたら、100人中95人くらいはこの時期を挙げるんじゃないだろうか。


Bringing It All Back Home/Bob Dylan
(邦題『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』)
(1965)
★★★★

言葉の定義の厳密さにこだわることにどれほどの意味があるかはさておき、俗に言う「フォーク・ロック」の特徴を、「フォーク・ギターを中心に、ドラム、ベース、そしてエレクトリックのリード・ギターなどで構成されたサウンド」とするならば、まさにこれがそのフォーク・ロックだ。5枚目の本作では、一部の曲を除き、ディランはフォーク・ギターを掻き鳴らしながら歌い、そのギターと一体となってドラム、ベースがリズムを作り出していく。リード・ギターが曲にブルージーなテイストを加え、ざらついたハーモニカが空間を切り裂く。前作『Another Side Of Bob Dylan』に足りなかったものを補ってみたら、こんなにもカッコいい音楽が塊となって出てきた。そんな感じだ。

元祖ラップ・ミュージックとも呼ばれる革新的な疾走感を持つ「Subterranean Homesick Blues」、シャッフルのリズムとともに吐き出すように言葉を繰り出していく「Maggie's Farm」、美しくシンプルなメロディーの繰り返しが病みつきになる「Love Minus Zero/No Limit」など、曲とサウンドと歌が一体になったこの世界は、ディランがここで初めて獲得したものだ。そしてこの成果は、次の傑作『Highway61 Revisited』において全面的に展開されることになる。

……と書いてきた流れを台無しにしてしまうようだが、じつはこのアルバム、上記のようなサウンドで押しているのはレコードでいうとA面だけだったりするのだ。B面の4曲にはドラムとベースは入っていない。そこでの演奏スタイルはこれまでと同じフォーク・ギターとハーモニカだけ(一部リード・ギターが控え目に入っている)なのだが、しかし「何か」が違う。それはもうただのフォークではない(あるいはもうただのフォークには聴こえない)。そこで鳴っているのは、ジャンルとしては「フォーク・ロック」の音なのだ。不思議なことに。

個人的なことを言えば、このアルバムで僕が好きなのはそのB面の方だ。かのバーズがカバーした名曲「Mr. Tambourine Man」から「It's All Over Now, Baby Blue」まで、イメージの連なりが奔流となって流れていくのに身を任せる快感を味わうことができるのは、楽曲そのものの力と、ディランの歌の力によるところが大きい。直接的にはサウンドの成果ではない。しかし、繰り返すが、それでもここで鳴っているのは「フォーク・ロック」なのである。

対してA面には、まだ未完成な香りが漂っている。もしかすると、次の『Highway61 Revisited』でその発展形、完成形を聴けることを知っているから、どうしても点が辛くなっているだけなのかもしれないが。ともかく、逆の見方をすれば、ここではフォーク・ロック誕生の瞬間のパッションを生々しいかたちで聴くことができるとも言える。そういう真に歴史的な作品は、ディランに限らずそう多くあるものではない。


Highway61 Revisited/Bob Dylan
(邦題『追憶のハイウェイ61』)
(1965)
★★★★★

ディラン通算6枚目は、ロックを変えた(ということは世界を変えた)不滅のマスターピース。変えた、というのは適切ではないかもしれない。ロックはここで生まれ、現在へと至っているのだ。そう言い切っていいくらい、この作品が世界中のミュージシャンに与えてきた影響は計り知れない。

とにかく全曲捨て曲なし、名曲揃いのこのアルバムだが、そのいちばんのポイントは曲ではなくサウンドにある。基本的には前作の『Bringing It All Back Home』のフォーク・ロック的なものを押し進めたバンド・サウンドなのだが、何が違うといって、ここでは一部の曲を除き、ディラン自身がついにエレクトリック・ギターを弾いているのだ。フォーク・ギターのように掻き鳴らされるエレクトリック・ギターを芯として、ドラム、ベース、それにピアノやオルガンやリード・ギターやタンバリンなどが一体となり、まるで鉄砲水のような勢いで噴出しつつ、うねりまくる。このサウンドをカッコいいと思えなかったら、残念ながらその人はもうロックは聴かない方がいい。暴言かもしれないけど、本当にそう思う。

中でもとくにこの作品を特徴づけているのは、アル・クーパーのハモンド・オルガンと、マイク・ブルームフィールドのリード・ギターだ。痒いところに手が届くというか、センスの塊のようなこの2つの音が、このアルバムに華と切れ味を与え、サウンドをきらびやかなものにしている。最後の「Desolation Row」のギターのすばらしさなんて、すぐにはうまく言葉にできる自信がない。

このままだらだらと語り続けても、全曲をただ誉めていくだけになってしまいそうなので、このへんにしておこう。このアルバムの良さなんて、世界中でみんなが論じているのだから。なにも僕が心配(?)することはない。


Blonde On Blonde/Bob Dylan
(邦題『ブロンド・オン・ブロンド』)
(1966)
★★★★★

世紀の名作『Highway61 Revisited』から1年もたたないうちにリリースされた通算7枚目の本作は、自身初のアナログ二枚組という大ボリューム。驚いたことに、これまた前作に勝るとも劣らない傑作なのだが、本当に驚くべきは、これが前作からの単純な延長線上にはないこと、前作とはまたぜんぜん別の魅力を持った作品に仕上がっているということだ。

たぶん、前作とのいちばんの違いは、プロデューサーが替わり、スタジオもこれまでのニューヨークではなく、ナッシュビルでの録音になったことだろう。具体的には、演奏が落ち着き、サウンドは透明感があるものとなっている。前作の、バンドみんなのエネルギーを一斉にぶちまけたようなものとは違い、隙間を作りながらの抑制のきいた演奏に乗せて、こちらも前作ほどテンションの高くないディランの歌が流れていく。吐き出すような歌い方は影を潜め、一言、一言をかみしめるように、聴き手に歌詞を届けることを最優先としているかのように、ディランは歌う。

どこをとっても名曲、名演揃いで、すべてが聴きどころ(本当にそうなのだ)のアルバムだが、ひとつだけとりあげて語るとしたら、「One Of Us Must Know」だろう。通して聴いているとここだけ違和感のあるサウンドなのだが、それもそのはず、この曲のみニューヨークの録音で、しかもバックはザ・バンドの前身であるザ・ホークスなのだ。いま「違和感」と書いたが、これは決して悪い意味ではなく、とりわけ飛び抜けて創造的に感じられる、というくらいの意味だ。そのくらいの名演だし、後にやってくる両者の蜜月時代を予感させる、非常に大きな意味を持つトラックだと思う。

ちなみにこのアルバム、家で聴いていたら、妻が突然「これ誰?」と訊いてきた。「ボブ・ディランだけど、なんで?」と訊き返すと、「なんか佐野元春みたい」と言って「逆なんだろうけどね」と笑った。なんだかいい話だと思いません?

John Wesley Harding(8th) ~ Dylan(13th) [ボブ・ディラン(Bob Dylan)]

『Blonde On Blonde』発売直後、バイク事故で首の骨を折るという大ケガを負ったディランは、そこから長期の療養生活に入る。結局、1年半ほどで復帰はするのだが、そこからの数年間に発表されたアルバムは、どれもリハビリ途中とまでは言わないが、自身のパフォーマンスと、そして音楽性までも含めて手探り状態で作られたような「軽さ」に包まれている。はっきり言って歴史を揺り動かすような傑作は出なかった時期だが、「ディラン史」においては他の時期にはないトライも見られ、興味深いともいえる。とはいえ、個人的にもこの時期のレコードをターンテーブルに乗せる機会は現在はほとんどないんだけど。


John Wesley Harding/Bob Dylan
(邦題『ジョン・ウェズリー・ハーディング』)
(1968)
★★☆☆☆

バイク事故による休養からの復帰作となった通算8枚目。基本的にはディランの弾き語りのバックに簡素なドラムとベースが加わっているだけのシンプルなサウンド。直近の『Highway61 Revisited』や『Blonde On Blonde』のような「ロック感」はここにはない。たぶん、当時のリアルタイムなリスナーにとっては拍子抜けというか、けっこう退屈に感じられたんじゃないだろうか。

じつはディランにはこの7年後(アルバムでいえば7枚後)に『Blood On The Tracks』という大傑作があるのだが、その作品もまた、この『John Wesley Harding』と同じ弾き語りのバックにドラムとベースが入っているだけというシンプルなサウンドに貫かれている。何曲かでペダル・スティールが味つけ程度に加わっている点まで同じなのだ。たぶん、ここでやりたかったのは、その『Blood On The Tracks』のようなことなんじゃないだろうか。とはいえ、この作品は『Blood On The Tracks』のような高みには達していない。悪い意味のシンプルさが容易に退屈さに転化しうるケースの見本のような作品ともいえる。

原因はおそらく楽曲自体にある。『Blood On The Tracks』の楽曲は弾き語りだけでも十分完成されているほど煮詰められているが、この『John Wesley Harding』の楽曲は、どれもあとでバンドがバックに入ることを念頭において作られているというというか、逆にいえば単純な8ビートのロックの楽曲をアコースティック・ギターだけで演奏しているような感じがあるのだ。

だからここでの演奏と楽曲には、どれも未完成な感じがつきまとっている。もっといいバンドで、もっと「ロック」してほしい。そんな不完全燃焼感が残るのだ。というか、たぶん本人もそう思っていたんじゃないだろうか。いい例が「All Along The Watchtower」で、この曲はジミ・ヘンドリックスがカバーして凄まじい名演を残しているが、ディラン自身、後のライブではそのジミ・ヘンのバージョンをさらにカバーしているようなアレンジを施している。要するにこのオリジナル・バージョンはまだ未完成の「原曲」にすぎず、デモ・テープみたいなものなのだ。サウンド的には(そしてたぶん「狙い」も)『Blood On The Tracks』と似てはいても、そのあたりのベクトルは真逆と言っていいだろう。

なんだか長いわりに否定的な解説になってしまったが、ラストのハッピーなカントリー・ナンバー「I'll Be Your Baby Tonight」はいいですよ。これを書くために久しぶりに聴いて、不覚にも感動してしまった。それに考えようによっては、たとえばバンドをやっていて、何かシブいカバーでもやってみたいと考えている人にとっては、カバーしやすい曲(そしてあまり有名じゃない曲)が揃っているという点で、もしかしたらこのアルバムは宝の山とも言えるんじゃないだろうか? ちょっと歌詞が難解な曲が多いのが玉に瑕だけど。


Nashville Skyline/Bob Dylan
(邦題『ナッシュヴィル・スカイライン』)
(1969)
★★★☆☆

通算9枚目は、『Blonde On Blonde』から続くナッシュビル録音3作目。事故による休養や、その間のザ・バンドとのセッションなどを挟んでいるにもかかわらず、いざアルバムのレコーディングとなると事故前からの続きを再開するような手法をとるあたりは、まだやり残したことがあるとの判断なのか、それとも契約やらなんやらの関係で、ある程度レコード会社の意向に沿わなくてはならなかったのか。ともかく、この『Nashville Skyline』は「やり残したこと」をやり尽くそうとでもしたかのようなアルバムだ。「やり残したこと」? カントリーを、である。

ともかくこのアルバム、全編にわたって典型的なカントリー・サウンドが展開されている。そういう意味では強力なコンセプト・アルバムともいえる。まるでコスプレーヤーが着せ替えをするように既成の音やスタイルの中に飛び込んで自身を変貌させていくのは後のディランの得意技だが、これは記念すべきその最初の例と考えていい。

というか、そんなコンセプト以前に驚かされるのはディランの声なのだ。アルバムの一曲目、いきなり飛び出してくる澄んだ声。誰、これ? 予備知識なしに聴いたら、絶対に間違ってぜんぜん違う人のアルバムを買ってきてしまったのかと思ってしまうはずだ。いやマジに。

その澄んだ声で歌われるのはセカンドの『Fleewheelin' Bob Dylan』に入っていた名曲「Girl From The North Country」。ああ、やっぱりこれ、ディランなのかな、と安心しかける。そこで突然、本当に違う人の声がカット・インしてくる。この曲では、カントリーの大御所ジョニー・キャッシュとのデュエットが試みられているのだ。もちろんデュエットなんてディラン初。ディランとはとても思えない澄んだディランの声と、ジョニー・キャッシュの魅惑の低音が、酔っぱらいのカラオケみたいに即興的な感じで絡んでいく。味があっていいんだが、それにしてもなんじゃこりゃ? そんな感じだ。

そして2曲目は、なんとディラン初のインスト・ナンバー「Nashville Skyline Rag」。これがまた、ただのブルーグラスなのだからまた戸惑う。3曲目以降も、典型的(つまりゴキゲンな)カントリー・サウンドをバックに、ディランは澄んだ声で歌い続ける。これ、当時は相当物議を醸したんだろうな、と思う。サウンドは過激じゃない(というか保守的とすらいえる)のに、そのサウンドをチョイスした手法自体が過激というか。

借り物のスタイルだけに、スケールの大きさはない。サウンド自体も、後のディランに直接つながっていくものではない。傍流といえば傍流だ。それでも、僕はこのアルバム、けっこう好きなのだ。収録曲が「Lay Lady Lay」「I Threw It All Away」といった名曲揃いというのもある。そもそも個人的にカントリーやブルーグラスが好きだというのも大きいのかもしれない。というか、よくできてますよ、このアルバム。少なくとも、この時期のディランの作品の中では例外的に現在でも聴いている唯一のアルバムだ。


Self Portrait/Bob Dylan
(邦題『セルフ・ポートレイト』)
(1970)
★★☆☆☆

通算10枚目は、発表当時に酷評され、現在もアルバムとしてはほとんど語られることのないこの作品。そりゃそうだろうなと思う。「ブルー・ムーン」をはじめとしたスタンダード・ナンバーを上品なアレンジで歌うディラン。ほとんどムーディ勝山である。たぶん本気なのにそう(パロディーかもと)思わせてしまうほど、唐突で、しっくりきている感じも、やりきった突き抜け感もない。サイモン&ガーファンクルの「The Boxer」なんて、オーバー・ダビングで一人デュエットしながら「ライラライ……」である。ほとんど藤崎マーケットだ。これなんてかなりパロディー濃度が高いような気もするのだが、でもたぶん本気なのだろう。でも、このアルバムの本当にマズいところはそこではない。それ(スタンダードのカバー集)に徹しきれていないところなのだ。

この作品、最初はニューヨークでレコーディングを始めたが、うまくいかないのでナッシュビルに戻って完成(一部ロサンゼルスでの録音もあり)させたとある。そのせいで、楽曲によってサウンドのテイストがバラバラになのだ。いちばんマズいのは、ディランの声が前作のような透き通ったものと、ザラザラ声のものが混じっているところである。環境が変わったせいか、微妙な時期の違いのせいなのか、それとも意識的にそうしたのかはわからないが、ともかく統一感には激しく欠けている。おまけに楽曲は肩の力の抜けたスタンダードのカバーが中心で、さらにわけもなくアルバム2枚組というボリュームなのだから、まさに散漫という言葉を絵に描いたような作品となってしまっている。聴いている感じは、まるで何かのアウトテイクを集めたタチの悪いコンピレーション盤のようだ。これがカバー集に徹していて、さらにデキのいいトラックのみ厳選したものならば、たとえばザ・バンドの『Moondog Matinee』のような味わいが出なかったとも限らないのだが。

というわけで作品としては明らかに★1つなのだが、ここではついつい、2つつけてしまった。理由は、なんとこのアルバム、なんの必然性もなく、ザ・バンドとワイト島のフェスに出演したときのライブから4曲も収録されているからだ。それ自体はまさに散漫さの極みと言うべき構成なのだが、この音源、すごく貴重なもので、他ではベスト盤にこのうちの1曲が収録されているのみ。またこれがワイルドないい演奏ときているのだから、ディラン&ザ・バンド好きにはたまったものじゃない。聴けるのは「Like A Rolling Stone」「The Mighty Quinn(Quinn The Eskimo)」「She Belongs To Me」「Minstewl Boy」の4曲。ね、聴きたくなってきたでしょ?


New Morning/Bob Dylan
(邦題『新しい夜明け』)
(1970)
★★★☆☆

11枚目は前作とうってかわって全曲が自作。ところがこれまた一筋縄じゃいかない。なんとこのアルバムではディランはギターではなく、ピアノを弾いているのだ。実際にディランが弾いているのは12曲中7曲、他でもアル・クーパーのピアノがアレンジの中心となっており、まさにピアノ・フォーク・ロックとでも呼ぶべきサウンドが繰り広げられている。前作と次の『Dylan』があまりにもひどすぎるせいでこの作品の評は好意的なものが多く、こういう言い方をする人はあまりいないが、これってけっこう異常事態だ。ディラン史においてもかなり異色の、ヘンなアルバムである。実験作と言っていいだろう。

とはいえ、その実験はかなりの程度まで成功している。ディランのたどたどしい、叩きつけるようなヘタウマのピアノはとてもいい味を出しているし、盟友アル・クーパーや凄腕セッション・ドラマー、ラス・カンケルらバックを固めるミュージシャンたちも、軽やかで乾いたオシャレな空気感をうまく演出し、またそのサウンドがアルバムを通して持続できている。本当に、なかなかのデキだと思う。何よりも、はじめてピアノ中心で作ったというディランの曲そのものが、これまでとは違う新鮮な手触りをもたらしている。

だがしかし、その実験はどこへもつながっていかず、単体で終了することとなる。このあとディランがピアノを弾く機会がゼロになったというわけではないが、少なくとも、ここでのサウンドや手法を積極的に発展させることはなかった。セルフ・カバーの鬼であるディランが、ここに収められた曲をライブで演奏することも、僕の知る限りほとんどない。たぶんそれは、このアルバムの曲が駄作だからでは決してなく、たんにピアノを弾きながらでなければ歌う気がしない(あるいは歌えない)からなのだろう。そして僕もまた、このアルバムをそこそこ評価はしているくせに、その評価に見合った頻度で聴いているかというと、それほどではないのが現状だったりするのだ。

さっき「発展させることはなかった」とは書いたが、ピアノを使った曲作り自体はこのあとも行われているようで、ときどきそういった曲に出くわすと、ああ、これが『New Morning』の成果なんだなと気づくことがある。『Planet Waves』の「Dirge」なんか、まさにそうだと思う。そういう意味では、実験は曲のバリエーションという面で実を結んだといえるのだろう。また、近年のツアーではキーボードを弾く機会は増えているようで、ファンとしてはどんな演奏をしているのか興味を覚えるところだ。

ちなみにアルバム冒頭の『If Not For You』はビートルズのジョージ・ハリスンが参加し、味のあるリード・ギターを聴かせてくれる名曲だ。またこの曲はハリスン本人やオリビア・ニュートン・ジョンがカヴァーしてヒットさせたらしいが、後者は聴いたことないなあ。

ナッシュビルでのカントリー、スタンダードのカバー、ピアノの練習(?)と続いたディランの実験と模索の時期はいったんこれで終わる。とっちらかった音楽的状況が整理され、そこからすくい上げたもので次なるオリジナル・アルバムが作られるには、じつにここから3年間の月日を待たなければならない。


Pat Garrett & Billy the Kid/Bob Dylan
(邦題『パット・ギャレット&ビリー・ザ・キッド』)
(1973)
☆☆☆☆

伝説のガンマン、ビリー・ザ・キッドの生涯を描いた同名映画のサントラ盤。サム・ペキンパー監督、クリス・クリストファーソンがビリー役でリタ・クーリッジがその恋人役、ディランもほんのちょっと出ているらしいが、この映画、観てないんだよねえ……。いつか観ようかなと思っていてすっかり忘れてた。

アルバムの方は、想像はつくと思うが、まあサントラですから、といった感じ。ただ何曲かはディランも歌っていて、バーズのロジャー・マッギンなどが参加して録ったメイン・テーマ「Billy」は4バージョンが収録されている。西部風味のフォーク・ロックいった感じ。悪くないが……まあサントラですから。

聴きどころは何と言ってもガンズなどのカバーでも知られる「Knockin' on Heaven's Door」。初出はここだった。名曲だし、『Planet Waves』あたりに入っていてもそんなにおかしくない感じの名演だが、まあベスト盤なんかでも聴けるし、いまとなっては1曲単位で購入もできるんだから、なにもこれだけのためにサントラ買う必要はないかな。


Dylan/Bob Dylan
(邦題『ディラン』)
(1973)
☆☆☆☆

最初に書いておくが、このアルバムはCBSを離れて新興レーベルのアサイラムに移る際、怒ったCBS側がディランに無許可で出した寄せ集めアルバムである。新たにレコーディングされたものはなく、『Self Portrait』や『New Morning』のころのアウト・トラックを集めて作られた代物だ。もちろん全曲カバー。ひどい話だが、作品はもっとひどい。

しかし、そんな事情を知らないで聴いたら、驚くだろうなと思う。だっていきなりプレスリーの『Can't Help Falling In Love』が甘~いアレンジで歌われてしまうのだ。『Self Portrait』からは3年も経っていて、おまけにあいだに『New Morning』もあったというのに。

さすがボツ曲集ということで、全体になんとなく焦点がボヤけた感じの演奏が続く。唯一、聴いていてオッと思うのはジェリー・ジェフ・ウォーカーの「Mr. Bojangles」のカバーだが、これとて冷静になってみればニッティー・グリッティー・ダート・バンドの方が良かったりする。あの車のCMかなんかで使われてたやつです。

ともかく、ディラン初心者はアルバム名が『Dylan』だからといって、ベスト盤や代表作だと思わないようにね。というか、実際に『Dylan』というタイトルのベスト盤はあったりする。真っ赤なジャケットに大きくタイトルが書いてあるやつ。そっちを買おうとして間違ってこっち買っちゃったら……という心配はとりあえずいらないかな。このアルバム、唯一ディラン本人からCD化の許可が出ておらず、廃盤になったままなのだ。上に貼ったamazonへのリンクは中古の、素性のよくわからない商品。4万円とか値がついてるよ……。ひでえ。

Planet Waves(14th)、Before The Flood(15th)、The Basement Tapes(17th) [ボブ・ディラン(Bob Dylan)]

『New Morning』から3年余、ついに映画のサントラや未発表トラックの寄せ集めなどではない、ディランの新作オリジナル・アルバムが届けられた。それが、ザ・バンドがバックを務めた1974年の名作『Planet Waves』である。このあと両者はツアーに出て、その模様はこれまた傑作ライブ・アルバム『Before The Flood』として発表される。おまけに、以前ディランがバイク事故で長期休業していた時期(1967年秋、『Blonde On Blonde』直後のこと。ちなみにザ・バンドの単独デビューは1968年)にザ・バンドの面々とプライベート・セッションを繰り返していたときの音源までが『The Basement Tapes』として発売されるなど、この時期のディランはザ・バンド抜きに語ることはできない。ちなみにこのころ、ザ・バンドは『Rock Of Ages』(なんとこのツアーにもディランはゲストで出演していた)から『Moondog Matinee』の時期。やるべきことが一段落し、次なる方向性を探りはじめていた時期だったといえるのではないだろうか。

なお、レコードの発売順は『The Basement Tapes』(1975年7月)より『Blood On The Tracks』(1975年1月)の方がわずかに先だったが、前者は過去の音源をまとめたものでもあるし、ディランの活動的には少なくともこの二作は順序を逆にして考えた方がより実態に近いと考え、このようなまとめ方にしてある。


Planet Waves/Bob Dylan
(邦題『プラネット・ウェイヴス』)
(1974)
★★★★

フォークなのか、ロックなのか、それともフォーク・ロックという新しいジャンルなのか。プロテスト・ソングを続けるべきか、それともラブ・ソングにシフトすべきか。カントリー、スタンダード・ナンバーときて、次は何に手を出したらいいのか。ある意味で60年代のディランは、そういった「ジャンルとの格闘」を活動の推進力としてきたといえる。自分がやっていることは何なのか、何をやることが期待されているのか。それを意識することなしに、次の一歩は踏み出せなかった。あるいはもしかしたらそれは聴く側だけの問題で、ディラン本人は「You do what you must do and you do it well(やらなきゃいけないことをやるんだ、そうすればうまくいくさ)」(「Buckets Of Rain」from『Blood On The Tracks』)という姿勢を貫いていただけなのかもしれないが。

いずれにせよ、「70年代ディラン」は、そんなジャンルの定義づけなどバカバカしくなってしまうような、「自分たち」だけにしかできない会心のサウンドとともに幕を開けた。当代随一のロック・バンド、ザ・バンドがバックを務めているのだから、おかしな作品ができるわけがない。そんな期待どおり、この『Planet Waves』はすばらしいまとまりを持ったアルバムに仕上がっている。

両者の出会いからの歩みは、わざわざここで詳述しなくてもどこか別の場所でいくらでも読めるだろう。重要なのは、このコラボがここで初めて試みられたものなどではなく、ずいぶん前からセッション、ライブなどさまざまな場を通じてその相性の良さが確認されてきたものだということだ。逆に言えば、最初の出会いから約7年も経ってようやくこの組み合わせでのスタジオ盤が作られたというのは、明らかに遅すぎるだろう。すでにここでのディラン&ザ・バンドは、一個の音楽的有機体として完成されすぎており、いささか緊張感に欠けるというか、何が起きるかわからないワクワク感を、他ならぬ本人たちが一番感じていないのではないかと疑ってみたくなるくらいだ。

実際にこの作品は、わずか3日のレコーディングで作られたという。おまけに11曲中、ダビングされたのはわずか3曲で、あとはすべて一発録りだとか。鍵盤楽器2名を含むザ・バンドにディランを加えた6名の演奏がである。ここに刻まれたサウンドの創造性とクオリティーの高さを考えると、ちょっと信じられない話である。ずば抜けた演奏能力はもちろんだが、コンビネーションという意味でも円熟の域すら通り越した無敵状態にあったのだろう。たぶんこれこそが、1974年当時に考え得る、最高のアメリカン・ロックなのだと断言してもいい。

ところで、もしこの作品に問題があるとしたら、それはただひとつ、これはディランのアルバムなのか、という点だろう。そのくらい、ここではディランのアクや個性の強さはザ・バンドの表現力に回収され、強烈なインパクトを残すことはない。作品の総合的なクオリティーの高さからすれば、意外なくらいである。でも、たとえばこの作品のアーティスト名が「ボブ・ディラン」ではなく、何かこの企画にのみつけられた新しいユニット名だったとしたらどうだろう? 「ディラン&ザ・バンド」でもいいのだが、もっとこう、何かまったく別のバンド名が望ましい。ディランが6人目のメンバーとして参加する新バンド、という考え方である。もしそうしてあったら、この作品は現在得ている評価以上の、「伝説のバンドの歴史的名盤」という評価を得ていたのではないだろうか。

ディランのアクが弱いということは、ディランが何となく苦手という人にはうってつけのアルバムだということにもなる。実際、もし「ディランのあの鼻がつまったみたいなオッサン臭い声と雰囲気が、なんか生理的に受け付けないんだよね」という人がいたら、僕は迷わずこの『Planet Waves』か、1976年の『Disire』あたりを聴いてみることを薦めたい。ただでさえ名曲の『Forever Young』が、同じ曲とは思えないほど異なるアレンジで2バージョン(というか、もはや別の2曲という感じなのだが)入っているという、普通のアーティストならやらないようなことを平気でやっているところなんか、いかにもディラン的であると同時に、初心者も一発でシビれてくれそうな気がするのだが。個人的なことを言えば、僕は後の方に出てくるカントリー調のバージョンが大好きである。最初の荘厳な雰囲気のバージョンもいい(そういえばザ・バンドの『The Last Waltz』でもこっちのバージョンで演っている)のだが、この曲の解釈としては、前者のハッピーな感じが断然好みだ。ちなみにこの2バージョン、レコードでは前者がA面最後、後者がB面1曲目になっている。当然のことながらこれ、CDだと続けて流れちゃうんでしょ? なんかもったいないなあ……。


Before The Flood/Bob Dylan, The Band
(邦題『偉大なる復活』)
(1974)
★★★★

『Planet Waves』制作直後から始まったディラン&ザ・バンドの全米ツアーの模様を収めたライブ・アルバム。『Self Portrait』で4曲だけ聴けるワイト島のフェスでの演奏や、ザ・バンドの『The Last Waltz』でディランが参加した5曲、あとは1968年のウディー・ガスリーのトリビュート・コンサートに出演したときのものなどを除けば、この組み合わせのライブを聴けるのはこの作品だけだ。ちなみにザ・バンドがまだザ・ホークスと名乗っていた1966年、ドラムもリヴォン・ヘルムではなくミッキー・ジョーンズで行ったライブの模様は、有名なブートレッグ『The Royal Albert Hall』として出回り、1998年に『The Bootleg Series Vol.4~Bob Dylan Live 1966 [The "Royal Albert Hall" Concert]』として正式リリースされている。

前置きが長くなったが、つまりこれは、ディランが充実期のザ・バンドをバックに行った貴重なライブを収めた作品ということだ。恐ろしくタイトでエネルギッシュな歌と演奏がたっぷり味わえる、まさしく傑作ライブ・アルバムに仕上がっている。

収録曲は、ディランがザ・バンドをバックに自分の曲を歌った曲が21曲中13曲、ザ・バンドが単独で自分たちの曲を演っているのが8曲ある。一見、なんだかおかしな構成のようだが、ディランが一人で弾き語りで「Just Like A Woman」など3曲を歌う部分も含めても、作品としての統一感は損なわれていないし、聴いていて違和感もない。先の『Planet Waves』のところでも書いたが、これはもはやディランとザ・バンドが組み合わさった、一つの新しいユニットのライブなのだ。そう考えれば合点がいくし、そのくらいこのコラボには分かちがたい一体感がある。というか、この作品のクレジット自体、「Bob Dylan」ではなく「Bob Dylan/The Band」となっているのだ。

ところで、ディランとザ・バンドは『Planet Waves』制作と同時に出たツアーにもかかわらず、ここには当の『Planet Waves』の曲は1曲も入っていない。というか、このツアー自体、『Planet Waves』からはほとんど演奏されなかったという。かわりに演奏されているのは「Like A Rolling Stone」をはじめとした60年代の名曲のオンパレードである。その名曲の数々が、オリジナル・バージョンからは想像もつかないような激しいアレンジで演奏され、叫ぶようなワイルドなボーカルで歌われるのだ。メロディーがほとんど原型をとどめていない曲すらある。のちにディランのライブといえばむしろそういうところこそが聴きどころになっていくわけだが(そういえばこのアルバムはディランとしては初のライブ・アルバムだった)、それにしてもこの激しさ、タイトさは凄い。これは想像だが、『Planet Waves』ではザ・バンドのエネルギーに飲み込まれそうになっていたディランが、今度は負けないように自らのテンションを引き上げた結果、それがまたザ・バンドを触発し、そうなるとディランはさらに頑張らざるをえず……という無限上昇スパイラルの結果が、この途方もなくエネルギッシュな作品なのではないだろうか。

で、このアルバム、間違いなく傑作なのだが、そういうところが若干、聴き疲れないともいえない。あまりにも隙間なく叩き込まれ続ける充実したフレーズの数々に、「ちょっとタイム!」と言いたくなるのだ。こっちの気力・体力が充実していないと、完全に作品に負けてしまう。そう、いい言葉を思いついた。このアルバム、ちっとも「癒されない」のだ。ディランにもザ・バンドにも、「癒し」の要素はあるはずなのに、少なくともこのアルバムにおいては、その面だけは切り捨てられている。

とまあ、いろいろ書いてきたが、これらはすべて誉め言葉です。そのくらい充実した作品だということ。癒しなんていらねえ、オレを倒してやろうっていう気概のある音楽があるなら、ここに持ってきてみろ! という人がいたら、ぜひ聴いてみてほしい。見かけだけハードな演技をしてるだけのヘヴィー・メタルなんかよりはよっぽど効くよ。


The Basement Tapes/Bob Dylan & The Band
(邦題『地下室(ザ・ベースメント・テープス)』)
(1975)
★★★★

1967年秋に、ウッドストックのビッグ・ピンクと呼ばれる借家の地下室で、たった3本のマイクで録音されたザ・バンドとのセッション。そのテープが流出し、ブートレッグとして出回り、ついに8年後、正式なアルバムとしてリリースされたというものである。おそらくはディラン&ザ・バンドの活動の盛り上がりに便乗(?)するような形のリリースだったのだろう。ちなみに『Planet Waves』『Before The Flood』の2枚を新興レーベルであるアサイラムから出したディランは古巣のコロンビアに戻ったのだが、この作品はそのコロンビアからのリリースとなった。

というワケで、この作品のポイントは「発表を前提として作られてはいない」「作品としては1967年の古いもの」「録音機材が貧弱」「ディランとザ・バンドに主従関係がない対等のセッション」といったあたりなのだが、何よりも凄いのは、これらがすべてウィーク・ポイントにはならず、この作品の長所となっている点にある。

ジャンルすら明確に指し示すことの難しい、まったく未知なるサウンドを追い求める実験のようなこのセッションは、発表を前提としたレコーディングでは不可能なものだ。また、あらゆるルーツ・ミュージックをドロドロになるまで煮詰めたごった煮のような味わいは、いかにも60年代の猥雑な味わいに満ちている。誰もが洗練と細分化への道を歩み始める70年代の空気の中からは絶対に出てこないサウンドだ。

貧弱な機材による、まともなエンジニアもいない(クレジット上はザ・バンドのガース・ハドソンがエンジニアとなっているが、何のことはない、テープ・レコーダーの操作を担当したというだけの意味らしい)ような環境での録音も、かえってサウンド作りの際の先入観の排除につながっているような気がする。何かの模倣や後追いではない音楽を作るうえで、すでに確立されている方法論に頼らない音作りができたというのは、チープなサウンドになるデメリットを補って余りあるプラス要素だったのではないだろうか。だいいちこんな奇妙なサウンド、この時代に狙って作れるエンジニアなんていなかったのでは。

また、ディランとザ・バンドの関係の対等さも、この8年後の『Planet Waves』『Before The Flood』のさらに上を行っている貴重なものとなっている。ここではディランはもはやザ・バンドの6人目のメンバーでしかなく、演奏しているのが誰の楽曲なのか、誰がボーカルをとっているのかになど、たいして重要な意味はないのだ。

ここに収められた「Tears Of Rage」はディランとリチャード・マニュエルの、「This Wheels On Fire」はディランとリック・ダンコの共作で、そしていずれもこのセッションの1年後に発表されたザ・バンドのデビュー・アルバム『Music From Big Pink』においてふたたび演奏されている。そういえば、同じ場所で録ったのだからある意味当然なのだが、この『The Basement Tapes』の全体的な音の雰囲気は『Music From Big Pink』によく似ている。それに対して、このセッションがディラン側に与えた影響を具体的に名指しすることは意外に難しい。どこがどう変わったのかはうまく言えない。しかし明らかにディランのバンド・サウンドに対する考え方、楽曲の作り方は、ここを境に変わった。つまりこのセッションは、ディランには無形の財産を、そしてザ・バンドには、具体的なサウンドの方向性とデビューという成果を与えた、という言い方もできるかもしれない。

昔、どこかで聞いたか読んだかした話でいくぶんうろ覚えなのだが、このセッションのテープは海賊版として流出する前、最初はミュージシャン仲間の間に出回っていたという。そして、あのニール・ヤングが、自分のレコーディングしているスタジオでかけっぱなしにしていたというのだ。まさにダイヤモンドの原石のような楽曲と演奏が詰まった、聴く者の創造力をビンビンに刺激してくるこのアルバムらしい話で、僕はとても好きなエピソードなのだが。

Blood On The Tracks(16th) [ボブ・ディラン(Bob Dylan)]

ザ・バンドとのツアーを終えたディランが次にとりかかったのが、古巣のコロンビアに戻り、弾き語りを中心としたシンプルなサウンドを持ったアルバムを作るという作業だった。タイトでハードなバンド・サウンドからのこの急激な振れ幅自体、いかにもディランらしいといえばいえるのだが、ともかく結果的にこの『Blood On The Tracks』は、ディランの最高傑作と呼ぶ人も多い名作となる。このあとディランはまたまた情熱的なサウンドを持つ『Desire』を作り、そのレコーディング・メンバーを中心としたツアーに出て『Hard Rain』というその名の通り「激しい」ライブ・アルバムを残すのだから、活動の流れだけを追えば、このタイミングで『Blood On The Tracks』のような静謐さにあふれた名盤が生まれたこと自体、奇跡のようにも思えてくる。


Blood On The Tracks/Bob Dylan
(邦題『血の轍』)
(1975)
★★★★★

ディランのピークをどこに定めるのかには諸説あるし、これだけの長きにわたって決して一本道ではない、曲がりくねった旅路を歩んできたキャリアと、そこに残してきた音楽的成果を考えれば、そんな設問自体に意味がないことは明らかだ。それでも、この『Blood On The Tracks』こそがその頂点だという意見を唱える者がいたとして、少なくとも真っ向からそれを否定する人はいないはずだ。いたら、その人とはちょっと友達になりたくはない。なんて、傲慢な発言の一つもカマしてみたくなる、そのくらいの名盤だ。

でもたとえば、ここでディランのピークを1960年代後半の『Highway61 Revisited』や『Blonde On Blonde』におくという主張がなされたとしよう。もちろん、その意見には一理も二理もある。いや何理とか数えるもんじゃないんだけど、ともかくそこでは、トータルなサウンドとしての「ロック」が発明された瞬間の、あふれるようなエネルギーを体感することができる。ごちゃごちゃとした予備知識などなくとも、それが現在僕たちが知っている「ロック」の原初にして、いまなお最高到達点であるということが、聴いた瞬間に直感的にわかるような作品。それが上記の2枚である。

対して、1975年発表のこの『Blood On The Tracks』には、当時でも、もちろん現在においても、何か特別に目新しいものが含まれているという印象はない。ガツンとくるような、聴く者を一発でノックアウトする衝撃はここにはない。ディランはただ曲を作り、ギターを弾きながらそれを歌い、無名に近いバック・バンドが必要最小限のサウンドでサポートしている。それだけのことである。そして、たったそれだけのことなのに、「ロック」、いやもっと大きく「ポピュラー・ミュージック」でも、あるいはただたんに「音楽」と言ってもいいのだが、そのように名付けられた、人類が獲得したある特定のジャンルの文化における最良の成果の一つと呼んでいいような普遍性が、この作品には内在しているのだ。

とまあ、大げさな言い方にはなったが、つまるところここにはディランの作曲家としての、シンガーとしてのピークを見ることができる。弾き語りを中心とした作品ということで考えれば、楽曲の深みと独創性、それを表現するギターと歌の見事さという点において、このアルバムを超える作品はディランの長いキャリアどころか、星の数ほど存在しているシンガー・ソング・ライターたちのどんな優れた作品を持ってこようとも、見つけることは困難だ。ジェイムス・テイラーだろうがジャクソン・ブラウンだろうがジャック・ジョンソン(おお、みんな頭文字が「J」じゃないか)だろうが、松山千春だろうがゆずだろうがYUIだろうが、事情は変わらない。誰よりもいま挙げた当人たちが、そのことをいちばんよく知っているはずなのだ。いや正直、YUIあたりはどうだかわからないが。

先に述べたように、このアルバムを構成しているサウンドはとてもシンプルだ。ディランのアコースティック・ギターの弾き語りに、簡素だがよく動くフレージングをするドラムとベースが絡み、空間をハーモニカやオルガン、ペダル・スティールが埋めていくというのが基本フォーマットとなっている。最初はエリック・ワイズバーグ&デリヴァランスというカントリー・ロック・バンドを起用して録音したが、発売直前になってやっぱり気に入らないということで、違うメンバーで半分の5曲が録りなおされている。が、それによって大きく方向が変わったということがなさそうなのは、アルバムを通して聴けばわかる。言われてみれば、という程度で、違和感と呼べるほどのものはない。むしろそのエピソードは、この作品がちょっとしたアレンジやプレイのタッチ、フレージングの違いといった細部に非常に気を遣って作られたものであり、時代と一体化したようなエネルギーが自然と名作へと導いてくれた1960年代の作品とは、その形成のされ方からして違っているということを物語っている。なにしろ、かの名曲「Like A Rolling Stone」ですら、あの印象的なオルガンのフレーズを弾いたアル・クーパーは当日たまたまスタジオに遊びに来ていただけで、まるで参加する予定ではなかったという、じつにいいかげんな空気の中から生まれているのだから。

ところで、ここからは思い切り個人的な感想になるのだが、このアルバムにおけるサウンドは、現在のディランにとっての最終的な「落としどころ」というか、最もしっくりくるものなのではないだろうか? いろいろやってきたけど、結局のところ、やりたいのってこれなんだよな、という感じで。アルバムでの試行錯誤は別として、1990年代以降のツアー・バンドの編成やサウンドを観察していると、どうもそんなふうに思えてしかたない。それはペダル・スティールやオルガンの使い方だったり、ドラムとベースと自分のギターという基本となる三点セットのコンビネーションの作り方だったりするのだが、なによりもサウンドのトーンが、この『Blood On The Tracks』に通ずるものを感じさせるのだ。おそらく、弾き語りというスタイルにある程度の重心を残しつつ、同じ曲を日替わりとも呼ばれるほどアレンジを変えて演奏していくのに最も適したサウンドが、これなのだろう。地味だし、聴く者への影響力という点ではインパクトの大きいものではないが、ディラン本人にとって限りなく「最終解答」に近い、普遍性を持ったサウンドが、このアルバムの音なのではないだろうか。

いま書いたが、いくぶん地味なサウンドのため、一聴しただけではこの良さがわからないということもあるかもしれない(実際にそういう意見を聞いたこともある)。まあ、そういうのって人それぞれなので基本的にはべつにかまわないのだが、このアルバムだけは、良さがわかるまで何度か聴いてみてほしい。そんなふうに頼みたくなるほど、名曲揃いのいいアルバムなのだ。

ちなみに、みうらじゅんの『アイデン&ティティ』に出てくる「やらなきゃならないことをやるだけさ。だからうまくいくんだよ」というフレーズは、このアルバムの最後の曲である「Buckets Of Rain」の「You do what you must do and you do it well」という歌詞からとられている。う~ん、深い。

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