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Closing Time(1st) [トム・ウェイツ(Tom Waits)]

一般的にトム・ウェイツのイメージといえば大きく分けて3種類あると思うのだが、それはそのまま、トムの活動時期で分けることもできる。

まずは、ファースト・アルバムで聴くことができるトム・ウェイツだ。男のナイーブな心情を、シンプルでフォーキーなサウンドに乗せて静かに、静かに歌う、いかにも若い男性シンガー・ソングライター的なこの顔を、トムはなんとこのデビュー作でしか見せていない。次のセカンド・アルバムからは、もう次の世界、まったく別のスタイルでしか実現できない世界へ入り込んでいるからだ。唯一、デビュー前のデモ・テープ音源を集めた『The Early Years』(Vol.2まで出ている)のみで、その瑞々しい世界の一端を味わうことはできる。ちなみにたったこれだけの音源しかないにもかかわらず、このトムがいちばん好きだというファンは多い。

2番目のトム・ウェイツが、いわゆる「酔いどれ詩人」的なトム・ウェイツである。ジャズ、ブルース、カントリー、R&Bなどを独自のセンスで融合させたメランコリックなサウンドに乗せて、物語性豊かな歌詞をダミ声で歌う、裏町のチンピラ路線だ。1974年のセカンド・アルバム『Heart Of Saturday Night』から1982年のサントラ『One From The Hear』、オリジナル・アルバムでいえばアサイラム時代最後の作品である1980年の『Heartattack And Vine』までがこれにあたるのだが、昔からのファンにとってトム・ウェイツといえば要するにこのイメージのトムのこと。

最後が、ノンジャンルで無国籍な音楽を作り出す、とびきりアバンギャルドなアーティストとしてのトム・ウェイツだ。時期としてはデビュー以来所属していたアサイラムを離れ、アイランド・レコードへ移籍して作った1983年の『Swordfishtrombones』以降がそれにあたり、もちろんその間にサウンドの方向性は変化してはいるが、大まかなところではそこから今日に至るまで、トム・ウェイツといえばそういうミュージシャンだと考えて間違いはないだろう。1992年に『Bone Machine』でグラミー賞「オルタナティブ・パフォーマンス」を、1999年には『Mule Variations』でグラミー賞「コンテンポラリー・フォーク・アルバム」を受賞していると言ったら、その評価の高さと、ジャンル無用のわけのわからなさぶりが少しは伝わるだろうか?

というわけで、ここではデビュー・アルバムである『クロージング・タイム』から順に、トム・ウェイツの作品について語っていくことにする。


Closing Time/Tom Waits
(邦題『クロージング・タイム』)
(1973)
★★★★

誰だって「孤独」は嫌いだ。しかし同じように、誰にだって「孤独」を愛する瞬間がたしかにある。つまるところ、僕たちはその間を行き来するだけの存在であり、そんな「孤独」との付き合い方というのは、たぶん僕たちにとって永遠のテーマなのだ。トム・ウェイツのデビュー・アルバムであるこの作品を聴くたびに、そんなことを考える。

もちろん、このアルバムが「孤独」を連想させるのは、ピアノ(一部アコースティック・ギター)を中心としたその簡素なサウンドが恐ろしいほど隙間だらけだという、純粋に音響的な理由も大きいのだろう。アップ・テンポの曲も「Ice Cream Man」ただ1曲で、気だるく、うら寂しいトーンが全体を覆っている。こういう例えが適切なのかどうかわからないが、この冷ややかな孤独感は、エリック・サティの「ジムノペディ」に似ているような気がする。もっとも、純粋にピアノ1台で奏でられる、ジャンルとしては現代音楽に属する「ジムノペディ」に比べれば、こちらの方がまだウォームな響きをたたえているはずなのだが、そのかすかな暖かさが、メジャー・コードの明るさが、いっそう寂しさを増幅させるのだ、これが。

こう言ってはなんだが、このサウンド的な寂しさは、たぶん単純に制作費が潤沢でなかったからというところによるところも大きいのだろう。時は1970年代、星の数ほどデビューしては消えていくウェスト・コースとのシンガー・ソングライターたちの一人でしかなかったトムに、それほど金をかけてはいられないというわけだ。だが、本当にそれがこの傑作が生まれることとなった理由の一つなのだとしたら、僕たちはそのケチなプロデューサー(といっても、ティム・バックリーやラヴィン・スプーンフルを手がけた名プロデューサーであるジェリー・イエスターなのだが)に感謝しなければいけない。

夜中にたった一人で空を見上げた瞬間、たまらなく「孤独」を感じたなら。ふと、昔好きだった人のことを思い出し、自分がまだその人を愛していることに気づき、でもどうしようもないという切なさに狂いそうになったなら。壊れてしまった恋のことを考え、人の気持ちが後戻りのできない、不可逆なものであるという事実に耐えられそうになくなったなら。そして、そうしているうちにいつしか地平線が明るくなりはじめ、いつものように朝がやってきたなら。せめて眠ってしまう前に1曲目の「Ol' '55」を聴いてみるといい。なんという開放感、なんという安堵感だろうか!

「孤独」は癒すものでは決してなく、耐えたり、やりすごしたり、笑いとばしたりするしかないものなのだ、きっと。そう知ることが「強さ」なのだとしたら、このアルバムは聴く者を少なくともグラス1杯分くらいは強くしてくれる。僕がそうだったように。

本当に、個人的には★5つでも足りないくらい偏愛しているアルバムだが、冷静に考えてみると、ちょっとこのサウンドはシンプルすぎる気がしないでもない。もう少し、造形美的な興奮や感動を味わわせてくれてもいいんじゃないだろうかとも思うが、でもそうなったらなったで、ここに現前している孤独感は、ほんの少しずつ減じていってしまうのかもしれないな、とも思う。難しいものだ。

Heart Of Saturday Night(2nd) [トム・ウェイツ(Tom Waits)]


Heart Of Saturday Night/Tom Waits
(邦題『土曜日の夜』)
(1974)
★★★★★

ジャジー、という言葉がある。英語の形容詞で、綴りはJazzy。と、ここまで書いて、これもしかして和製英語じゃないだろうな、と不安になったので急いで辞書で調べてみたが、ちゃんとありました、ジャジー。意味は「ジャズ風の」といったところで、肝心なのはここなのだが、たぶんジャズそのものには使われない言葉なんだと思う……んだけど、どうだろう。使うのかな?

ジャズから派生した、あるいはジャズの要素を取り入れた新興ジャンルには、アシッド・ジャズ、スムース・ジャズ、ニュー・ジャズ、ジャズ・フュージョン(現在では「ジャズ」がとれて「フュージョン」という一つのジャンルとして独り立ちしているが)などがあるが、もちろんこれらのサウンドに対しても「ジャジー」という言葉は使われない。いや、使われることはあるのかもしれないけど、たぶんそれはイレギュラーなケースで、本質的に合わない言葉のような気がするのだ。なぜならば、いま挙げたようなジャンルのサウンドは、ジャズをもとにして、そこに何を加えたのか、どう変質させたのかで語った方が、スムースな理解が期待できるからだ。もとになっているのがジャズである以上、「ジャジー」もくそもない。

で、このトム・ウェイツのセカンド・アルバム、もうどろんどろん(ってのもヘンな言い方だが)にジャジーな作品なのだ。ということは、これはジャズではない、ジャズから派生したものではない。なんだかずいぶん逆説的な話のようだが、でもそういうことになる。

たとえば、この後に発表される『Small Change』や『Foreign Affairs』には、もっとストレートにジャズからの影響を感じさせる楽曲が収められている。自身でもライナー・ノーツで書いているように、それはジョージ・ガーシュインであり、セロニアス・モンクであり、フランク・シナトラであり、誰よりもルイ・アームストロングなのだが、それらは「ジャズ」の影響下で作られた音楽、「ジャズ」の延長線上にある音楽なのであって、「ジャジー」なわけではない。それが『Heart Of Saturday Night』というアルバムが達成した音楽との、大きな違いなのだと思う。

このアルバムを初めて聴いたのは1980年代の終わり、20歳くらいのころだったが、当時は古いロックを聴き漁るのに夢中で、じつのところジャズに興味はなかった。オシャレでムーディーなものなんてむしろ毛嫌いしていたくらいのアナクロ野郎で、フェイバリットはボブ・ディランとザ・バンド。あとはライ・クーダーやニール・ヤングやローリング・ストーンズやエリック・クラプトンやその周辺を掘り下げていくだけで手一杯だった。だが、トム・ウェイツには、とくにこの『Heart Of Saturday Night』には完全にノックアウトされてしまった。なんだこの格好よさは? なんでこの音楽はこんなに胸の奥深くにまで届いてくるんだ? という感じだった。

いまになってみれば、なぜ当時の自分が一見、畑違いにも見えるこの作品の素晴らしさを理解することができたのかがわかる。これはジャズではないのだ。これは「ジャジー」なブルースであり、フォークなのだ。そういう意味で、このアルバムはデビュー作の正統的な発展形なのだと言える。だが、ベース、ドラム、サックスをジャズ畑のメンバーで固め、ピアノの前に座って歌いはじめた瞬間、そこにはどうしようもなく「ジャジー」な空気が流れてしまった。「流れてしまった」なんて大失敗みたいな言い方だがもちろん正反対で、「奇跡」が起きた、という意味である。ジャンルの壁を越えて何か本質的なものが、エモーションが届くという「奇跡」が、だ。

好きなアルバムはどれも「名曲揃い」と言いたくなるが、このアルバムもまた、本当に名曲揃いだ。メロディーも、歌詞も、アレンジも、何年聴いていても飽きるということがない。アルバムの冒頭、ドラムのこれ以上ないほどルーズなフィル・インで「New Coat Of Paint」が始まるのを聴くたびに、名曲「San Diego Serenade」でトムが「Never saw the morning till stayed up all night(徹夜してみるまで、朝なんてお目にかかったこともなかった)」と歌い始めるたびに、タイトル曲の「(Looking For)The Heart Of Saturday Night」のアコースティック・ギターの伴奏の後ろで、車のクラクションのSEが聞こえてくるたびに、なぜか胸が詰まり、涙が溢れそうになる。もう20年も、だ。これを「奇跡」と呼ばずして、何と呼べばいい?
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Nighthawks At The Diner(3rd) [トム・ウェイツ(Tom Waits)]


Nighthawks At The Diner/Tom Waits
(邦題『娼婦たちの晩餐』)
(1975)
★★★☆☆

チャールズ・ブコウスキーの翻訳なども手がけている山西治男は、トム・ウェイツのファンブック『Mr.トム・ウェイツ』に掲載するため、40曲ほどの歌詞を訳した際、次のような感想を編者に漏らしている。

「浮かれ気分で訳しはじめたのはいいけれど、単語レヴェルでつまずきっぱなし」だった。たくさんのスラングを例に挙げ、そんなのみんな「ウェイツで初めて知った」という。そして「主語が隠れんぼするわで、ホント、まいった」と嬉しそうに嘆いた。

このことは、トム・ウェイツの表現と僕たちの関係を端的に言い表しているエピソードのような気がする。僕たちというのは、つまり日本人ということなんだけど。

もちろん、原理的には日本人が洋楽を100%の正確さで理解できるかというと、それは難しい話だ。でも、言葉の部分が100%じゃなくても、それ以外の部分でもっと重要なエモーションの受け渡しができていれば、全体は120%にも200%にも膨らむはずだというのは、これはもう洋楽を愛する者の信念みたいにもなっているし、そもそも優れた歌曲においては言葉と音は完全には不可分なのだから、言葉で足りない分はちゃんと音から得ているはずだ、というふうにすら思っていたりする。

それでも、ある特定の状況では、そんな楽観論も追いつけないレベルのコミュニケーションの不足が起こる。そしてそれは、トム・ウェイツの音楽ではそう珍しいことじゃないと思うのだ。

ピアノもギターも弾くトム・ウェイツは、では最も得意な楽器は何かと訊かれて「ボキャブラリー」だと答えた。1950年代のビートニク詩人から多大な影響を受けたという、その言葉の武器化のし方、もう少し具体的に言うと、無意識で自然なセンスにまかせた言葉の垂れ流しへの、ちょっとポジティヴすぎるほどの確信は、僕をしばしば戸惑わせる。それは、結局僕たち日本人には洋楽ロックのことは100%わからないのかもしれないという、どんなに楽観していてもいつも意識の底に少しは残っている負い目みたいなものを直接、刺激してくる。

もちろんそういうのはボブ・ディランだろうとニール・ヤングだろうと、ないわけじゃない。でもトム・ウェイツに関しては、その表現のかなり本質の部分で、この問題が起こっている気がする。

この『Nighthawks At The Diner』は、ハリウッドのレコーディング・スタジオに観客を入れてライブの形で録音されたアルバムだ。曲は全曲、新作(1曲だけカバー)で、いわゆるライブ・アルバムとはちょっと違い、それなりに新しい試みは行われている。サウンドは基本的に前作、2作目の『The Heart of Saturday Night』のままだ。というか、ライブのため編成はドラム、アップライトベース、ピアノ、サックスという最小限の簡素さで、演奏もジャジーというよりは、50年代のジャズそのものともいえる。いやカッコイイです。少なくとも前作が好きな人は、無条件で気に入ると思う。もちろん僕も大好きだ。

では前作とは何が違っているか、何が新しい試みなのかというと、曲のタイプと、それからトムの歌い方、いや歌い方じゃないな、言葉の扱い方が違うのだ。

ここでは、詞が歌われず、詩が読まれている。そういう違いがある。ジャズの編成による演奏をバックに詩が読まれている曲といえば、例えば前作に収められた名曲「Diamonds on My Windshield」が思い浮かぶ。ああいう曲をたくさん用意して、全編にわたってライブでやってみた、というのがこのアルバムのいちばん簡単な説明になると思う。この歌うことと節をつけて朗読することの境界線の独特の曖昧さは、トム・ウェイツを聴いているんだなあという感じを強く与えてくれる。それは、トム・ウェイツの表現のかなり本質の部分なのだと思われる。

曲数は、一応18曲入っていることになっているが、じつはうち7曲が「Intro」となっている。ここで何が行われているかというと、曲に入る前に、ポロンポロンと楽器をつま弾きながら、なにやらベラベラとしゃべっているのだ。しゃべっているといっても、なんとなく節はついていたりして、ただの演説じゃない。ポロンポロンも、だんだんと演奏っぽくなっていく。で、そこから自然に曲に入っていくのだ。全編73分54秒のうち、じつに12分58秒をこの「Intro」が占めている。いや、「Intro」じゃなくて曲のはずの「Nighthawk Postcards」なんて11分27秒もあるけど、これに至ってはまるまるそれだけで終わっている。

この「Intro」部分で、客はとにかくよく笑っている。綾小路きみまろかよっ!と突っ込みたくなるくらい、トムは観客をよく笑わせている。でも、何がおかしいのか、僕にはちっともわからない。伝わってこない。歌詞カードにもその部分は載っていない。先に挙げたファンブックで例としてちょっと紹介されているのをそのまま引くと、「俺はすごくやりたくってムラムラしているから、夜明けの空の割れ目だって俺に気をつけた方がいい」みたいなことを言っているらしい。たぶんそれをダジャレ的な言葉遊びを交えながら言ってるんだと思う。50年代のビートニクの詩人たちみたいに。

ボキャブラリーが武器だというトムの詩は、他のどんなミュージシャンの歌詞よりも日本人の僕には聞き取りにくい。直感的に入ってこない。もし観客の笑いがなければ、またなにかセンチメンタルなことでも言ってるんだろうな、やっぱカッコイイなトム・ウェイツは、とかなんとか思ってしまうのだろう。そう考えると、ちょっと落ち込む。オレの言う「カッコイイ」って、なんかすごく底の浅いものなんじゃないか。そんなふうに自信を失いそうになる。

このアルバムを、なんだか素直に諸手を挙げて礼賛できない理由があるとしたら、そういうことになる。それはトム・ウェイツの問題ではなく、100%僕の問題だ。ちなみにトムもまた、ヨーロッパを中心に頻繁にツアーをしているが、日本へは1977年と78年に1回ずつ来て以来、一度も来ていない。

もちろん、そういう部分にへんに悩まなければ、ここでは僕の好きなトム・ウェイツをたくさん、最高の演奏で聴くことができる。「Eggs And Sausage(In A Cadillac With Susan Michelson)」の、しけたダイナーのメニューを淡々と歌い上げていくところなんて、ちょっとたまらない。僕的にはこのアルバムのハイライトだ。「Better Off Without A Wife」では、デビュー・アルバムの頃のフォーキーな味わいが微かに感じられる。文句なしの名曲「Nobody」もそう。「Warm Beer And Cold Women」は前作に入っていた「Ghosts of Saturday Night」と曲想がそっくり。歌詞はこっちの方が好みかな。

アナログ盤だと、このアルバム、2枚組になっている。とにかくすぐひっくり返さなくちゃいけなくて忙しいんだけど、でもだからこそ、けっこう頻繁に聴いたような気もする。

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