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Oh Mercy(31st)~Under The Red Sky(32nd) [ボブ・ディラン(Bob Dylan)]

急激に変化していく時代との折り合いという点で、もがいたり諦めかけたりしているようにも見えた1980年代後半のディランは、しかしそんなディケイドの終わり、1989年の『Oh Mercy』で再び鮮やかに時代の音楽シーンとの波長を合わせることに成功した。手法はこうだ。これまでも、ディランはある意味、まるで服を着替えるように既製のサウンドに身を投じることでシンガーとして、ソングライターとしての変質を繰り返してきたわけだが、その「服」とは、古き良きカントリーや、逆に勃興したてのヒップホップのようなジャンルであったり、あるいはザ・バンドやローリング・サンダー・レビューのようなバック・バンドであったり、時にはダニー・コーチマーやマーク・ノップラーといった個性的なギタリスト(ザ・バンドのロビー・ロバートソンもある意味ではここに数えられる)だったりした。それが今度は、ついに「プロデューサー」という存在に、素材としての「ボブ・ディラン」を全面的に預けることにしたというわけだ。

いや、これまでにもプロデューサーとの作業はしていたし、その役割が小さくないアルバムもあった。でも、ここまでディランがすべてを任せたことは、たぶんなかった。自伝やインタビューなどでわかっているが、『Oh Mercy』のダニエル・ラノワとはレコーディング中、ずいぶん衝突し、険悪な雰囲気になったことも数え切れないくらいあったという。しかし逆に考えれば、ディランはそんなふうに本気で「衝突」してくれる相手が欲しかったんじゃないか。欲していたのはそういう「過程」だけで、最終的に出てくる具体的な「音」なんか、この人はどうでもよかったんじゃないだろうか。そんな気すらする。

この、時代の先端を行くプロデューサーに自分を預けてみるというトライで生まれたアルバムは、2枚ある。1枚は、その後のディランにとっても必要な財産となり、1枚は、これっきりの試みで終わった。まあ、そんなのは結果論で、作品自体の価値はまた別だという考え方もあるのかもしれないけれど、でもそういう結果論って、けっこう作品自体の価値とシンクロしていたりすることが多いんじゃないかとも思う。というか、僕たちは結局のところ、結果論でしか言葉を発することはできないんじゃないだろうか?



Oh Mercy/Bob Dylan
(邦題『オー・マーシー』)
(1989)
★★★☆☆

実をいうと、僕がリアルタイムで発売を待ったディランの初めてのアルバムが、たぶんこれになる。時期的にはもう少し前からディラン自体は聴いていたが、まだ過去の作品を追っている最中で、というか他のどのアーティストに関しても、とにかく60~70年代の遺産を発掘するのに夢中になっていて、リアルタイムの音楽に徹底的に興味のなかった時期だった。そんな僕でも、あのダニエル・ラノワがプロデュースするディランの新作が出るらしい、という話には、さすがに興奮した覚えがある。時代は既にCDへの移行が本格化しており、たしか渋谷の、今はなきWAVEでようやくアナログ盤を見つけて買ったんじゃなかったかな。

この時点で、すでにダニエル・ラノワはU2、ピーター・ゲイブリエル、それから元ザ・バンドのロビー・ロバートソンのファースト・ソロ・アルバムなどのプロデュースにより、大きな成功と高い評価を手にしていた。自分名義の良質なアルバムもたくさん出しているラノワは、今考えれば純粋なプロデューサーというよりは、プロデューサー的なこともできちゃうし、対象アーティストの本質を見抜いてそれを引き立たせるセンスはもちろん非凡なんだけど、でも根っこのところはミュージシャンというかプレイヤーというか、普通にわがままな表現者なんだと思う。だから、彼が作る音はけっこう画一的というか、ラノワの音になる。そしてそれは、ちゃんとラノワ自身のアルバムと同じ音になっている。少なくともその本質に「多芸」や「多彩」というタームは当てはまらないし、ああ、この言葉を使うと僕がダニエル・ラノワを嫌いというか軽視しているみたいになっちゃうけど、そんなことはないどころかむしろ好きで、でもしょうがないからいうんだが、つまりワンパターンなのだ。そしてそんなバリバリのわかりやすい既製服を、ディランが着ることになったというわけだった。

で、その服は果たしてディランに合ったのかというと、これがものすごく合ったのだ。ディランの曲作りは、このサウンドと演奏に触発されて、シンプルながら常にバンドとの一体感を感じさせる方向で成されている。まあ、単にディランの曲を活かすラノワのディレクションがうまいだけなのかもしれないが、ともかくうまくいっている。ディランのボーカル自体にもいいテンションがある。というか、ここまで抑えた歌い方をしながら途切れない緊張感を感じさせるディランというのは、声質自体はしゃがれ声になって当時とはずいぶん違っているが、例えば『Blonde On Blonde』あたり以来なんじゃないだろうか。純粋にディランのシンガーとしての凄みというか深みを味わうことができるという点では、これはもしかしたら屈指のアルバムなのかもしれない。

この『Oh Mercy』は、だからディランの作品の中でもけっこう傑作・良作という評価が一般的となっている。僕もそう思う。異論はない。そう、5点満点でいうと……3.9点といったところだろうか?

4つにできなかったのは、それでもやっぱり、僕にはディランより服の方がほんの少し目立ってしまっているように感じられるからだ。すごくいいアルバムで、不満はまったくない。いま聴いてさえ、魅力的な作品だと思う。でも、これならダニエル・ラノワのソロ・アルバムを聴けばいいんじゃないだろうか? ピーター・ゲイブリエルの『So』でもいい。それは、アナログ・レコードでいうと特にB面側に強く感じられる。ゆったりとしたテンポの曲調、叙情豊かに抑揚をつけたリズム隊、トレモロを効かせたクリアなギターが、まるで夢の中に出てくる湖の水面がそよ風で揺れるように背景にたゆたい、遠近感たっぷりに奥の方で小さくスライド・ギターが鳴っている。その音世界は、あまりによくできすぎているがゆえに、強い既視感と、この素材はディランでなくてもいいんじゃないか、という小さく素朴な疑問を呼び起こす。その疑問は、どんなにかすかだろうとも、音楽を楽しむ上では純粋に邪魔だ。

逆にA面は、本当に凄い。僕は、何度聴き直しても必ず一度は「Political World」か「Everything Is Broken」で「うわ、カッコいい……」と呟いてしまう。大げさではなく、この2曲が、ディランが80年代から抜け出して90年代以降へと向かうためのエンジンになったような気がする。そのくらい、後のディランへの架け橋のようなものを感じる。ダニエル・ラノワが作ったサウンドではなく、ラノワと共に作業したことによりディランから出てきた「何か」が、ここにはある。その手応えは、8年後に再びこのコラボレーションによって作られることになる『Time Out of Mind』へと繋がっていく。




Under The Red Sky/Bob Dylan
(邦題『アンダー・ザ・レッド・スカイ』)
(1990)
★★☆☆☆

ダニエル・ラノワに続いてディランが身を預けたのは、なんとあのウォズ兄弟だった。

……と書いてはみたものの、実はいまだにこのウォズ兄弟ってのが僕にはよくわかっていない。P-ファンクがどうのこうのとか、今でいうハウスの先駆けだったとか、兄弟というのは架空の設定で、本当は従兄弟同士だとか、まあ断片的な知識はないことはないのだが、これまでの僕の音楽生活は、なぜか彼らに一切絡むことなくきてしまったのだ。だから、もしかしたらトンチンカンなことを書いたりするかもしれなくて、そのあたりは大目に見てほしいところなのだが、といいつつ、さっそく一つ。この人たち、デトロイトのファンク・シーンの出ということだが、この『Under The Red Sky』が別にファンキーでも何でもないのは、いったいどういうことなんだろうか? それがプロデューサーってもの、自分の作品じゃないんだからさ、というのがその回答なのだとしたら、まあそれ自体いいも悪いもないが、でもはっきりいってつまんない、それじゃディランがあのダニエル・ラノワに続いてわざわざプロデュースを依頼する意味があんまりないのでは、と、最初から喧嘩腰というわけではないが、でもそんな意地悪の一つも言ってみたくなってしまうわけだ。

いや、どこかで読んだのだが、この話はディランが依頼したわけではなく、ウォズ兄弟の方からアプローチして実現したものだというのだが、それでどんなプロデュースが成されたのかというと、豪華なメンバーをスタジオにたくさん呼んで、曲ごとにちょっとずつ参加してもらい、それをあとでうまいこと編集する、という方向の作業なのだという。自身の作品もそんな方法論で作るらしく、実際、その手際は見事だ。豪華なパーツを、とても丁寧に組み合わせて上品なロックを提出することに成功している。「Wiggle Wiggle」ではなんとあのスラッシュがギターを弾いている。イントロなんて、なかなかのドライヴ感だ。「Under The Red Sky」はジョージ・ハリソンがギターで、アル・クーパーがオルガン。曲調といい、まるで『Highway61 Revisited』の「Queen Jane Approximately」で、懐かしさすら感じる。「Born in Time」や「2 X 2」のバックで、しんみりとした明るさを湛えたコーラスを付けているのはデヴィッド・クロスビー。「10,000 Men」のバッキングのギターがやけに雰囲気があると思ったら、これがなんとスティーヴィー・レイ・ヴォーンだった。ブルース・ナンバー「God Knows」もそう。「Cat's in the Well」はデヴィッド・リンドレーのスライドがさすがの味。「Handy Dandy」は30分以上続いたセッションを、編集で4分3秒にしたとのことで、即興演奏の勢いと、でも作り込まれたものの濃密さが両立されている。

で? だからどうした?

一流のミュージシャンたちを集めてすごく上手に作られたこのロック・アルバム、それ自体を僕は否定しない。なかなかいい曲、とてもいい演奏、ちゃんとしたプロデュース。このアルバムが好きだという人には、むしろ全面的に賛意を表したい。それでも、僕自身はこのアルバムにを3つも4つも与える気にはならない。ここに収められた音は、概ね新しい。現代的だ。でも、なんというか、その精神はとても後ろ向きなのだ。どのパーツをとっても、期待され、またその期待通りに実現されているのは過去のパフォーマンスであり、まだ見ぬ、未知のパフォーマンスではない。それらを劇的な形で組み合わせることによってまったく新しいものを現前せしめるマジックを成そうという気概も、特に感じられない。すごくいい。でも、こういうのはあらゆる意味で贅沢な無駄以外の何ものでもないと思う。

ディランのボーカルも、『Oh Mercy』にあったような緊張感はなく、どことなく緩い。ただのしゃがれ声でしかない。その声は、まるでこう言っているように感じられる。「こんなやり方じゃ、たぶん何も生まれないよ」と。
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